映画評「何が彼女をさうさせたか」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
1930年日本映画 監督・鈴木重吉
ネタバレあり

1930年度の【キネマ旬報】ベスト選出は変則で、洋画はトーキーとサイレントとに分かれ夫々二本と三本、邦画は現代劇と時代劇とに分かれて三本ずつ(全てサイレント)しか選ばれていない。
 その年の邦画現代劇部門で1位に選ばれたのが本作である。当時流行っていた傾向映画と言われる作品の一つで、焼失(消失)したとされていたが、近年ロシアで不完全ながら発見されたそうで、序盤と終盤の場面を除いて割合良好な状態で観られる。

序盤と終盤も字幕で全て紹介されるのでお話は解る。因みに、傾向映画というのは、政治的傾向映画の略(?)とも言われ、体制批判的な映画のことである。原作となった藤森成吉の戯曲は何年か前に読み、幕切れが印象に残っている。

十代半ばの少女すみ子(高津慶子)が父親の手紙を持って子沢山の伯父一家に預けられる。欲深い夫婦は彼女をサーカスに売り飛ばす。残忍な団長を嫌って彼女は好青年新太郎(海野龍人)と逃げ出すが、用で出かけた彼が交通事故に遭って離れ離れになり、詐欺師の片棒を担がされた後救貧施設を経て、県会議員の下女になるが、やがて追い返される。
 家政婦になった琵琶法師の家で主人に襲われて逃げ、その直前に再会した新太郎と所帯を持つ。やがて彼が劇団を首になり食い詰めた二人は入水心中しようとするが、別々に助けられ、彼女はキリスト教会系施設で改心を強要される。しかし、その偽善の恐ろしさに気づいて正気を失い、施設に火を放つ。

というお話で、社会主義的に言えば、搾取する側と搾取される側の対極がこれでもかこれでもかという感じで描かれるが、戦後の社会主義プロパガンダ的な映画と違って直接的な主張が薄い。
 つまり、実際には富裕層と貧困層の対極というより、伯父宅での話を見れば分るように、支配する側と支配される側という対比の構図のお話となっていて、そこには色々なタイプの悪があるわけである。現代風に言うと、セクハラとパワハラである。
 パワハラには神の名の下に理不尽なことを強要する教会の偽善もある。彼女を精神的に追い詰めるのは貧困ではなく、支配する側の度重なるハラスメントで、それをダメ押しするのが教会。怒りの対象はあくまで社会の総体なのである。

90年前のお客は現在の観客以上の理解力があったのではないかとさえ僕は思っているのだが、反面、民度が低くて、ある意味他人の不幸を喜ぶような傾向があったとも想像でき、演劇でも本作のような内容が受けたのだろう。
 その為、些か極端な作劇となっていて、義憤にかられると同時にその作戦に嵌ってなるものかと思わされたりもする。

可憐なヒロインに扮する高津慶子は、白血病から復帰しつつある水泳選手・池江璃花子に似た大変可愛らしい女優で、熱演。

NHK Eテレ【100分de名著】がマルクスの「資本論」を取り上げている。数年前に遂に完読した「資本論」は19世紀前半の英国労働事情を詳細に紹介しているが、労働時間が日に16時間から12時間に短縮されて大喜びしたという部分にインパクトを覚えた。12時間でも現在なら働きすぎと言われるよ。

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