映画評「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
2019年アメリカ映画 監督ウッディー・アレン
ネタバレあり

多作なのでいつまでも追いつかないウッディー・アレンの最新作でござる。今回は、現時点でまだ本当の最新作が日本で公開されていないので、何とか追いついた形。
 例の問題で、アメリカでは本作も最新作も観られないのだそうだ。日本もそうだが、個人の問題と作品は別にできないものか。人間が不寛容になっている。人権に関し一面進歩があり、一面退歩があるという気持ちが湧きます。

金持ちでIQの高いNY市出身のギャツビー(チィモシー・シャラメ)は、主に上流感覚を求める母への反抗から、アイビー・リーグの大学を止めてNY市に程近いペンシルヴェニア州のヤードレー大学に転籍、アリゾナ銀行頭取の令嬢アシュリー(エル・ファニング)を恋人にする。
 その彼女が大学の課題で映画監督ポラード(リーヴ・シュレイバー)へのインタビューをすることになり、ギャツビー君が取材地NY市への観光案内を買って出る。ところが、彼女はポラードのインタビューが思わぬ方向へ行ったことから彼とのデートを反故にする羽目になり、その間に町を彷徨する彼は友人の学生監督に頼まれて映画のラブ・シーンに出演することになり、その相手の少女チャン(セレナ・ゴメス)は昔のガールフレンドの妹。
 何とかキス・シーンを撮り終えた彼は、一向にデートに応ずる様子の見えないアシュリーにいらいら、その間にチャンと再会すると、エジプト展に行ったり、彼女のアパートに寄ったり。そこで得意のピアノを弾く彼に満更もない彼女は、雨降るセントラルパークの時計台下での早朝デートを想像するのだ。
 母の気取ったパーティーにエスコート・ガールをアシュリーと称して出かけるものの、母親は彼女が商売女と見抜いて追い返し、自分が商売女であった過去を打ち明ける。これに目を見開かされた彼は、翌朝アシュリー憧れの馬車から降りて事実上の別れを宣言、時計台下へ行ってみる。少ししてチャンが現れる。

チャンが理想的と言った出会いの場面を現実化させるラスト・シーンの扱いに象徴されるように、アレン一流の皮肉な台詞や町を彷徨するシーンなどを別にすると、いつもより古典的なロマンティック・コメディーの匂いを感じる。その為にか、画面がややソフト・フォーカスに加工されている。
 そのクラシックさを背景音楽のエロール・ガーナーのピアノが強化する一方、大枠で語ることができる昔の恋愛映画一般と違い、ニュアンスの面白さを感じて戴きたく、梗概は少々細かく書いた。

紆余曲折を経てロマンスの結実が示す結論は、母親の言う“人を見た眼で判断すべからず” ということ。つまり、金持ちで見た目の良いアシュリーはかなり愚かで、半裸にコートをあおった姿で “何もなかった” と言うような程度の低さ。翌朝馬車乗りのお楽しみをおじゃんにする雨に不平を言う彼女が自分とは住む世界が違う人間と感じ、雨降る時計台の下で会うのが良いと言ったチャンにこそ自分に合う理想の女性を見出すのだ。

これがアレン流の恋愛論であり、ひいては人間論ということになるのだろう。

登場人物の性格を考えるのも楽しい。主人公は上等指向の母親を嫌いつつ、見た目の上等なアシュリーを選び、同時にそうした指向に対する反骨精神もある。実は母親への反骨にこそ母親の精神が潜んでいるのだ。あるいは、映画監督の内省的な態度はストレートに解せない気もする、etc.etc.

居ながらにしてニューヨーク市を満喫できそうな作品。しかし、本国では観られないのだ。可哀想に。

フィツジェラルドの「偉大なるギャツビー」を少し意識していますかな。

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