映画評「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
2017年イギリス=アイルランド合作映画 監督ヨルゴス・ランティモス
ネタバレあり

籠の中の乙女」「ロブスター」といった変だけどなかなか面白い作品を作るギリシャ人監督ヨルゴス・ランティモスの最新作。これも奇妙な内容であるが、スリラーと考えれば一番普通に近い作品と言って良い。とりあえずお話。

心臓外科医コリン・ファレルは眼科医の妻ニコール・キッドマン、14歳の娘ラフィー・キャシディ、12歳くらいの息子サリー・スリッチと幸福な暮らしを営んでいるが、家族に内緒で16歳の謎めいた少年バリー・キオガンと会っている。腕時計を贈ったりもする。おや同性愛の少年愛か?と思わせるが、一向にそれらしい雰囲気が出て来ない。
 やがて彼は少年を家に連れてきて、家族に会わせる。ここで最初の疑惑は消え、少年が彼が酒を飲んで手術をした時に死んだ男性の息子であることが判ってくる。ファレル氏としては親代わりのつもりなのであろう
 少年はファレル氏に独身になった母親アリシア・シルヴァーストーンと仲良くしろと妙な言動をし、それを拒むと直後、息子が歩けなくなり、食事も取らなくなる。
 病院のテラスで会ったキオガン少年は彼に告げる。“食事を取らなくなった後目から血を流したら死ぬ。その前に三人のうちの誰を殺すか決めないと全員死ぬことになる”と。続いて娘にも同じ症状が出るが、病院でいくら調べてみても病気の原因が見当たらない。
 さあ、主人公はこの後どういう行動を取るか。

ランティモスという監督は寓意により社会風刺や人間批判をする監督だが、今回はやや直接的だろうか? 究極の選択を迫られる状態に陥った時に人間の取る自己中心的な行動が印象に残る。自己中心的な行動ではないが、ファレルが娘と息子のどちらかを選ぶために学校の教員に自分の子供二人を比較させるところの居心地の悪さは、意地の悪い監督ミヒャエル・ハネケに通ずるものがある。不快だが、これらの映画の価値はそこにこそある。

現在人類学者フレイザーの大著「金枝篇」を読んでいる。その最初の主題として宗教と呪術(単なる呪いではなく願かけ)の関係性が扱われるが、何故か少年は呪いを実現させる力があるようである。フレイザーに従えば、未開時代の一時期であれば彼は王になる資格がある(彼はその力を失った時には殺される)ことになるが、それはともかく、彼が初めて医師の家を訪れた時少年は子供二人に贈り物を授けている。これが呪いの藁人形のような役目を果たしているのではないか? 何となれば、贈り物をされていない母親には結局症状が出て来ない(父親は最初からその対象ではない)。

画面には縦の構図を多用、カメラが常にゆっくりと移動もしくはズームして不穏な空気を醸成する。この辺りスタンリー・キューブリックの「シャイニング」に似ているという意見が多い一方、仰角の監督キューブリックと違ってやや俯瞰のアングルが多く、時に神の視点を感じさせないでもない。しかし、この監督の場合、神の視点というより、これもまた観客に対する不安の惹起を目的としたものではないかと思う。といった具合に、画面的にもなかなか面白い。

どちらがサブ・タイトルか知らないが、「聖なる鹿殺し」だけで十分であろう。

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この記事へのコメント

浅野佑都
2019年06月03日 04:43
聖なる“鹿殺し”ではなく、“聖なる鹿”殺し でしたね。
邦題がややミスリードで、メインビジュアルの題字も「鹿殺し」が赤で、「聖なる」が黒なので、鹿殺しという行為そのものが神聖であると誤読した人も多いのではないですかね。

当然、プロフェッサーには釈迦に説法ですが、原題のSacredはKillingではなくDeerにかかっていて、Sacredには「聖なる」の意味と「生け贄として捧げられる」というニュアンスもありますね。
その辺を真逆に捉えて、バリー少年が神であるとか、復讐劇だのといった人の感想が多く見受けられました。

もちろんこれは復讐劇ではないと思います。
少年は、あくまでも主人公夫婦にその因果応報を伝える語り部に過ぎないでしょう。
主人公が少年を返り討ちにしたところで家族にもまた二重の因果が返ってくる。少年自身もまた「聖なる鹿」であるならば。

>贈り物をされていない母親には結局症状が出て来ない
主人公の罪は、神の所有物である「聖なる鹿」=少年の父を自らの過失で殺したことであり、彼が大事なものを自ら手にかける以外に贖罪は成立しない。ならば、当然、その対象は最愛の子供たちであり、欲望のはけ口ではあっても真の愛の対象者とはいえない妻のキッドマンには症状が出なかったのでしょうか。

>居心地の悪さ
どこか寒々としたハネケ、フォン・トリアーに比べると原色を重視したゴージャスな映像、特徴的な顔馳せのバリー君以外は美男美女ばかりと、古のオカルト・ホラー映画的にも楽しめるところのある作品でしたね。
オカピー
2019年06月03日 22:17
浅野佑都さん、こんにちは。

題名に関しては、その通りですね。
だから正確には“聖鹿殺し”というほうが良かった。但し聖獣という単語はあっても聖鹿という言葉は一般的にはないと考えられますからねえ。

実は本文で取り上げた「金枝篇」のそもそもが、ディアナ(ローマ神話の狩猟の女神)あたりから始まります。これはギリシャ神話のアルテミスに当たる女神。アルテミスには自分の裸身を見た狩人アクタイオーンを鹿に変身させ、彼の愛犬に食わせてしまうというエピソードがありますよね。

ランティモスはギリシャ人ですから、この現代の神話とも言うべきお話に、ギリシャ神話かギリシャ悲劇がベースにあるのではないかと想像しましたが、調べますと自分の映画評に影響してしまうので、この作品に関しては回避。
 先程少し調べたところ、監督は自分の考えた物語がギリシャ悲劇に似ているのに気づいたと言っているようですが、やはりどこかにそういう記憶があったのかもしれません。
 いずれにしても、色々なサイトが、アルテミスの名前を挙げていて少し納得できるものがありましたが、完全な解題・解読とは思えない感じ。

浅野さんの理解はそれらと全く違って面白い。ニコールは「ドッグヴィル」で僕が神の遣いと思ったヒロインを演じていましたが、対照的な役で興味深いです。そう考えると、本作でバリー・キオガン扮する少年は「ドッグヴィル」のヒロインに通じるものかもしれませんね。彼の容貌には、インディアンの血が入っている感じがあり、ちょうど「金枝篇」を読んでいる最中であり、そこで触れられている呪術が頭を過りました。

>ゴージャスな映像
やはりラテン系ですので、寒色系に傾きやすい北欧系のハネケやフォン・トリアーと違って、色が鮮やかになるのかもしれません。

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