映画評「鉄道運転士の花束」

☆☆☆(6点/10点満点中)
2016年セルビア=クロアチア合作映画 監督ミロシュ・ラドヴィッチ
ネタバレあり

セルビアとクロアチアの合作作品。タイトルからは伺い知れないが、ブラック・コメディーである。

引退を考えているベテランの鉄道運転士イリヤ(ラザル・リストフスキー)は、数十人の男女を轢き殺してい、壮絶な報告に耐え切れない若い心理療法士を逆にケアしたりする。
 ある日自殺志望の十歳の少年シーマ(ペータル・コラッチ)を線路で救い、結局ずっと面倒を見て鉄道学校を卒業させる。人を轢き殺すことの苦悩を知るイリヤは息子にしたシーマを運転士にさせまいと努力するが、シーマが同僚に運転させられて危ない目に遭った為に、逆に彼に運転技術を教え込み、やがて運転士としてデビューさせる。
 ところが、イリヤが轢殺の苦悩を教え込んだのが逆効果を招き、シーマは人を轢き殺すまで安心できず、ノイローゼになる。そこでイリヤは思い切ったことを考える。

というのが大体のお話だが、イリヤの状況と全体の環境を考えれば、この“思い切ったこと”が何を指すのかは推して知るべしで、それ自体は何の驚きもない。いずれにせよ、彼の決意とは違う形で終るのも、ちょっとしたブラック・ユーモアになっている。

本作最初のブラック・ユーモアは心理療法士が患者であるイリヤに療法される序盤のシークエンスで、暫くまったりした状態が続いた後、最大のブラックさを迎える。シーマが轢き殺すまで精神的に安心できないというシチュエーション、これなり。

本作の中で少々解りにくいのは、イリヤが若い時に別の列車に轢かれた恋人か妻ダニカ(ニナ・ヤコヴィッチ)が、彼の心象風家として蘇ることの意味である。多分人を轢き殺しすぎ、高齢にもなって精神が混沌としてきたことを示し、やがてシーマを恐怖症から解放することで、自らも解放されるという展開への布石であると思う。
 それを端的に示すのが、現在の恋人のような存在になっている女性ベテラン療法士ヤゴダ(ミリャナ・カラノヴィッチ)と列車に乗っている終幕近い場面で“ダニカはいない”と彼に断言させる台詞でござる。

ブラック・コメディーとしてそこはかとなくニヤニヤさせるところは巧く作られていると思うが、鉄道の安全性が日本とは大きな差があるようで、その為にモチーフの普遍性の関係でピンと来にくいところがある。

旧ユーゴ諸国では何故かブラック・コメディーがよく作られます。

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