映画評「河」

☆☆☆☆★(9点/10点満点中)
1952年フランス=インド=アメリカ=イギリス合作映画 監督ジャン・ルノワール
ネタバレあり

正確には憶えていないが、初めて観たのは30年以上前である。
 英国の閨秀作家ルーマー・ゴッデンが英国統治時代のインドを舞台に書いた自伝的小説をインドで映画化したもので、 Allcinema の諸氏が言うような意味で“アメリカ映画”ではありますまい。

ジャン・ルノワールの映画は、僕にはなかなか良さが解りにくい。
 「ゲームの規則」(1939年)も最初は手こずったし、それ以上に「恋多き女」(1957年)が厄介。比較的解りやすい「大いなる幻影」(1937年)は観るたびに邪魔者が入ってまだ把握しきれていない。「フレンチ・カンカン」(1954年)が直球的に楽しめたくらいだろうか。

この作品も当時の映画としては実に独特な(恐らくインド的と言っても良い)テンポで進み、そう簡単に映画の世界に入っていける作品ではない。

1920年頃。工場管理人の14歳の愛娘ハリエット(パトリシア・ウォルターズ)が主人公で、彼らの町に滞在することになったジョン中尉(トーマス・E・ブリーン)をめぐって、工場主の娘ヴァレリー(エイドリアン・コリ)、英国とインドの混血娘メラニー(ラーダ)とが恋のさや当てを演ずることになる。

といってもそこは英国流で、詩作に思いのたけをぶつけるハリエットが、直情径行的な言動をとりがちなヴァレリーに密かな対抗意識が燃やすだけ。自らのアイデンティティーに苦しむメラニーはぐっと精神的に中尉と交流する。
 戦争で片足を失ったことに時に落ち込むことに関しメラニーの厳しい意見を受け、ハリエットの弟がコブラにやられて死ぬという経験を経て帰英した中尉から “結婚しました” という手紙が届いて揃って白け気分。

という英国式「若草物語」の趣もある青春模様は、原作ではいざ知らず、ルノワールの映画版では余り重視する必要もないと思う。
 Allcinemaにこの部分こそ重要なのだという投稿もあるが、その人がどうでも良いと仰るインドの文化(死生観を筆頭とする思想)や映画の色彩が、やはりこの映画を語る時に欠かせないものと僕には思われる。

印象派の大画家を父親を持つジャン・ルノワールが自身初めてのカラー映画において色彩を重視して作ったことは理屈ではなく画面が能弁に語っているし、その失恋を経てインドの悠久たる大河によってヒロインが思い至る“一日が終わり、そして終りが始まる”という仏教的回帰思想は、当然インドの景色や文化(この映画の景物から観光気分は感じられない)を体験せずに感得できるはずもない。片脚を失って落ち込む中尉が失意から回復するのも、メラニーやハリエットというインド文化を匂わす女性たちを通して間接的に関係しているだろう。

以上、恋愛観を含めて、ルノワールらしい解りにくさ(例によって一見他愛ないようなお話にも思える)がはびこり、おぼつかい理解のうちに凄味を感じる一方で、現状ではまだ“参りました”と素直に言えない気分が優る。

現在5年後くらいの発表を目指して洋楽アルバム・ベスト100なるものを選ぼうという気の長い計画を実行中。僕のライブラリーは1960年代後半から70年代前半のロックが大半を占めるが、比較的最近のものも入れられるように聴き込む日々だ。例えば、ニルヴァーナ(若い人から見れば既に古典)、ラディオヘッド、アークティック・モンキーズ、ディアンジェロなど。この中で年寄りに一番解らないのがニルヴァーナの凄味だが、アメリカのインテリ必聴盤ジョニ・ミッチェル「ブルー」はもっと解らない。ルノワールの映画を観るような気分を味わう。思うに、文学的要素が高いボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーン、ジョニ・ミッチェル辺りは詩をとことん理解しないと駄目なのだろう。ラップについては諦めた。

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