映画評「魔術師」

☆☆☆☆★(9点/10点満点中)
1958年スウェーデン映画 監督イングマル・ベルイマン
ネタバレあり

製作から17年経って漸く日本に輸入されたイングマル・ベルイマン監督作で、公開時に旧作ながら高く評価され、興味を持った。その後東京に住むようになったが、終ぞ映画館で観るチャンスに恵まれず、結局、一緒に公開に至った「冬の光」(1962年)と共に日本公開から10年後くらいにレーザーディスク(LD)を購入して観たのだった。今回観たのはプライムビデオにて。LDより遥かに綺麗な映像で満足度は増した。

19世紀半ば。発声できない(と称する)マックス・フォン・シドウを団長とする奇術一座が、ある町に足止めされ、領事と医師(グンナー・ビョルンストランド)と警察署長にいびられる。非科学的なことを否定するのが彼らの立場で、一座は疑われる交霊術などはやっていないと証言、翌日の昼間奇術を披露することになる。
 奇術は他愛無いものだが、催眠術の能力は大したもので、署長夫人はべらべら夫の悪口を喋り、屈強な夜警は身動きが取れなくなる。ところが、催眠が解けた瞬間に夜警がシドウに飛び掛かり、殺してしまう。
 署長の横で医師が解剖して検視するが、その直後死んだはずのシドウが亡霊となって医師の前に現れて、いびり返す。実は、旅の途中で拾ってその後に死んだアル中男の死体を奇術師らしく自分と入れ替えたのにすぎない。
 そんなこんなで諦観した団員たちが帯同せず、団長と男装するその妻(イングリッド・チューリン)はがっくりするが、署長から無罪放免を宣告された後、王宮からお招きの通達が届く。

一種のどんでん返しと言って良い、文字通り陽光照らす中で馬車が進み行く幕切れが、冒頭の陰鬱なムードと鮮やかな対照を成し、内容もなかなか解りやすい為これからベルイマンを観ようかという方に向いていると思う。

スウェーデンの神秘主義の伝統を引き継ぐ作家ベルイマンらしく、非科学的な要素を科学と対立させているのも魅力で、中盤後半の怪奇劇のような見せ方はカメラワークが素晴らしく、実に楽しめる。
 勿論そこには神の存在の問題と対峙してきたベルイマンらしさが発揮されているわけで、登場人物の立場の対立はまるでベルイマンの心の中を見るようではないか。僕は、牧師の家に生まれて父に反発したベルイマンは宗教に否定的なのであって、必ずしも無神論者ではない、と思っている。

全編に渡って対立・対照で構成されている中で、真と偽という対立もある。一座の団長は鬘と付け髭で厳めしい雰囲気を偽装しているし、細君は男装している。真実を化粧の類に隠す人間の二面性(仮面性)の問題が「仮面/ペルソナ」(1966年)などに先駆けて出ている次第で、鑑賞者におかれては哲学的な考えに思いを馳せるのも良いだろう。

ハイキーの画面は序盤から断然の魅力を発揮し、それが最高潮に達するのはくだんの怪奇劇的場面である。痺れます。

スウェーデン語ではrgの綴りはryの発音となり、イングリッド・バーグマンは本国ではベルイマン(ベーリマン)となる。30年くらい前に絶頂期を迎えた人気テニス選手エドバーグも登場したての頃は本国の発音通りにエドベリと言うメディアが多かった。次第にメディアによって二つの言い方が並立する格好になったと記憶する。

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