映画評「洲崎パラダイス・赤信号」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
1956年日本映画 監督・川島雄三
ネタバレあり

芝木好子の小説「洲崎パラダイス」を川島雄三監督が映画化した人間劇である。本当は人情劇と言いたいのだが、この言い方では山田洋次の作品群のようなものを想起させてしまうだろう。強い恋愛感情でも腐れ縁の類であるから、まして恋愛映画とは言えない。

1980年代後半に衛星放送で一度観たことがある。川島雄三は早世したせいもあって、遍く定まった評価が映画ファンにない感があり、僕も東京各地の名画座を駆けずり回った東京時代に「幕末太陽伝」以外に観た記憶がない。
 今回、弊ブログ常連のモカさんから、YouTubeにおいて期限付きで無料で見られるという情報を得た為、急遽再鑑賞したという事情がある。有難うございました。

売春禁止法が施行される1957(昭和32)年の前年。江東区の赤線・洲崎パラダイスの直前で、内縁の夫・義治(三橋達也)を連れた蔦枝(新珠三千代)がバスから降りる。彼女はその中で働いていた過去があり、誘われるように降りたのであろう。彼女は、小さな居酒屋兼貸しボート屋を営むお徳(轟夕起子)に雇ってもらえないかと掛け合う。
 昔取った杵柄で男性の扱いの巧い彼女は、早速神田(秋葉原)のラジオ商店主落合(河津清三郎)をたらし込み、後にアパートまで借りて貰うと、さっさとこの居酒屋を去っていく。
 お徳に蕎麦屋を紹介して貰った義治は遂に堅気になる気になるが、そんな折に彼が恋しくなって落合のアパートを出て来た蔦枝は酒場に戻ると、蕎麦屋の可愛らしい店員玉子(芦川いづみ)がどうも彼を好いているらしいと知り、益々義治への情熱をたぎらす。結局二人はまた寄りを戻して洲崎を去っていく。

二人のこれからの人生を考えれば全くハッピーエンドではないが、元気にバスを追いかける幕切れが良い後味を残すことは確かである。

大体において昔の良い映画は、相似と対照をうまく使う。本作では、中盤から後半の初めにかけて三橋が懸命に探し回り、終盤では蔦枝が彼を探す。バスを降りるところから始まる映画は、バスに乗るところで終わる。これは相似と対照の組合せで、きれいな対称を成す。義治以外の男性は女性に去られ、お徳の戻って来た夫(植村謙二郎)は愛人に殺される。これらは義治との対照。

中盤義治が蔦枝と落合を探す長いシークエンスでは、連続的にすれ違い(寿司屋や劇場)を見せる。これにより映画は観客に義治の蔦枝との関係を運命論的に終らせると予想させるが、実際には寧ろ逆で、すれ違いをものともしない二人の腐れ縁が運命論的に強調されるような印象を、僕は持つのである。

81分という短尺で、お話が物凄いスピードで進行する。ちょっと慌ただしい感じを受けなくもないが、その慌ただしい中で当時の、他人との距離があらゆる意味で近い日本人(都会人)の他人観がよく感じられる。今の人間は他人に対して丁寧であるが概して親切ではない。丁寧なのは他人行儀であるからで、実際には冷たいと同義語である。そこへ行くと、当時の人間は、現在に比べると非道徳な感がある一方で、道端に倒れた義治を見も知らぬ工夫(こうふ)たちが助け起こし、おにぎりを与える。この映画で一番印象に残ったのは、才人川島監督には申し訳ないが、実は工夫のおにぎりなのである。

「細うで繫盛記」の賢婦人のイメージが強い新珠三千代が、そのイメージを全く裏切る婀娜っぽいヒロインを演じて(僕らの世代には)新鮮。同時に、見続けるうちに彼女らしい顔に見えて来るのだから、面白い。

1956年は日本の評論家がきちんと評価すれば、世界の日活になった可能性がある。本作もそうであるが、大向こうにそれ以上の黙殺を受けた「狂った果実」を正当に評価したのはフランソワ・トリュフォーである。「太陽の季節」のセンスも優れていた。これはヌーヴェル・ヴァーグ以前にヌーヴェル・ヴァーグしていた作品群と僕は思っている。3年後にヌーヴェル・ヴァーグが台頭、その直後に松竹の新感覚の映画が“松竹ヌーヴェル・ヴァーグ”と言われる。いや、勿体ない。日本の医学界が無視した為にノーベル賞が取れなかったにちがいない、ビタミン発見の鈴木梅太郎と似た例ではないだろうか。

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