映画評「スモーク」(1995年)

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1995年アメリカ=日本=ドイツ合作映画 監督ウェイン・ワン
ネタバレあり

四半世紀ぶりくらいの再鑑賞である。ブルックリンのタバコ屋に集まる人々の小話を集めた内容で、連作短編集の趣き。

オーギー(ハーヴィー・カイテル)の経営する煙草店に頻繁にやってくる作家ポール・ベンジャミン(ウィリアム・ハート)が、ボケっとして車にはねられそうになったところを、少年ラシード(ハロルド・ベリノー)に助けられる。作家はこれを契機に数日間、訳ありらしい彼を宿泊させる。
 少年は泥棒が落とした5000ドルを着服してポールの書棚に隠すと共に、15年前に逐電した父親(フォレスト・ウィテカー)の自動車修理屋に正体を告げずに働き始める。
 オーギーの前に18年くらい前に別れた恋人ルビー(ストッカード・チャニング)が現れ、彼の間に出来たと称する娘(アシュリー・ジャッド)が妊娠していると言って無理矢理引き合わすが、既に堕胎した不良娘は母親に対してにべもない。後段で娘が彼の子供かどうかは50%の確率なのだというのが真相と判る。

最後にオーギーがポールに彼が定点写真を撮り始めた由来を語る。クリスマスの日、店の万引き犯を追って辿り着いたある盲目の老婆の家から、恐らく孫が掠めて来たのであろうカメラを一台盗んでくるのである。
 小犯罪がクリスマスに織り成す小話なのだが、何ということもないお話なのに良い話と感じてしまうのは、トム・ウェイツの唄をバックにモノクロで綴られる描写が滋味溢れるからである。
 彼の定点写真の中に銀行強盗で不慮の死を遂げたポールの妻も収まっている。この場面も非常に印象深い。

原作兼脚本ポール・オイスターは短編の名手オー・ヘンリーの現代版を意識したのではないだろうか。とぼけていると同時にしっとりした味わいがあって連作的なところは、ウィリアム・サローヤンの連作短編集「我が名はアラム」に通底するものがある。ヘンリーとサローヤンこの両者を併せたような印象を持つ次第。
 映画の中に出て来る作家は勿論オースターの分身だが、実際の彼と妻とは死別ではなく離別。

映画としてはジム・ジャームッシュの呼吸・感覚に近い印象。香港出身のウェイン・ワン監督のホームランでした。

この映画の良さが解る人は、大人じゃよ。

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