映画評「青春の蹉跌」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
1974年日本映画 監督・神代辰巳
ネタバレあり

僕が読む石川達三は専ら社会派小説だが、彼は1960年代以降色々と若者を主人公にした作品も書いた。本作の原作となった同名小説もその一つで、映画は大学に入学してからロードショーより数年遅れで観た。大変興奮したので、後日大学の友達と少し話をしたが、今回はその時ほどの興奮は覚えず。

私立大学法学部の江藤賢一郎(萩原健一)は、勉強の狭間に短大受験生・大橋登美子(桃井かおり)の家庭教師を務めている。彼女が合格し、騙される形で二人でスキー旅行に出、その夜結ばれる。
 順調に彼は司法試験の試験をパスし、面接試験を残すだけとなり、彼が生活資金など色々頼っている伯父・田中栄介(高橋昌也)の娘・康子(檀ふみ)に傾き出した頃、登美子が妊娠を告げる。
 今度は彼が彼女を雪山に誘うと、彼女から心中を示唆されると拒否し、結局所期の計画どおりに(?)彼女を絞殺して雪の下に埋める。康子との内祝言を挙げた賢一郎が復帰したアメリカン・フットボール部の試合に臨んだ日、二人の刑事がやって来る。無視して試合に出るが、タックルを受けて倒れた彼は首の骨を折る(死ぬ)。

死ななくても彼の人生は終わっていたわけだから、お話としては屋上屋を架す形ながら、それでも試合中の死は人生の挫折そのものを如実に物語り、主人公をアメ・フト部員とした脚色の長谷川和彦のアイデアが生きているように思う。原作はこの辺りをどういう風に描いているのだろうか? 

賢一郎は、高校時代に学生運動をしていたが現在はすっかり白けているという設定。1950年代後半生まれの僕らは最初から白けていて新人類の前にシラケ世代と言われた世代(無政治的無関心)であるが、数歳上に当たる賢一郎らは学生運動に挫折して無力感にさいなまれた世代(脱政治的無関心)で、同じシラケ世代でも土台が違う。社会や大人に対するニヒリズムは、彼が心の中で「大漁唄い込み」を脱力的に口ずさむことによく表れている。

原作由来であるお話の構図は、日本版「アメリカの悲劇」(戦後の映画版「陽のあたる場所」)で、野望の果たし方が共通するとは言え、主人公の悲劇性においてアメリカ版を上回る。
 と言うのも、刑事の話から登美子の妊娠した子供の父親は別人であることが解り、寧ろ利用されたのは主人公のほうだからである。彼女は思慕を寄せていた先生をスキーの段階から騙したわけで悪辣千万、ある意味自業自得の最期という気すらする。

伯父さんがヨットの上でナイフのゲームをするのは「水の中のナイフ」(1962年)からの引用で、これは長谷川のアイデアにちがいない。神代辰巳監督も引用(オマージュ)の多い人だから、彼のアイデアかも知れないが、いずれにしても目的は同作と同様に世代の断絶を表現する為か?
 人生に白けた主人公は、野望ではなく、無気力の惰性の付けという形で死ぬのである。ポスト団塊世代の悲劇と言うべし。

去年ショーケン、今年は志村けん。韻を踏んで遊んでいる場合ではないが、僕らのよく知る有名人が今の時代としては早めに次々と亡くなる。抵抗力のなさは自分のせいとは言え、志村けんの新型コロナによる死は悲劇である。

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