映画評「熱いトタン屋根の猫」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
1958年アメリカ映画 監督リチャード・ブルックス
ネタバレあり

税金の申告に行くので待ち時間に読める文庫本を・・・ということ借りて来たのが、テネシー・ウィリアムズの戯曲「やけたトタン屋根の上の猫」で、それを読んだ後で本作を再鑑賞しようと決めていた(結局コロナ騒動で、申告に来ていた人は数名。会場で読めたのは僅かに2ページだった)。

高校生の時にTVで観て、アメリカの家族の確執を描いた作品を“南部もの”と僕が言い始めるきっかけとなった作品(但し、誰かが言っていたものを自分なりに定義を広げたもの)である。この映画は原作との比較は免れない運命なので、まずは映画単独の批評から始める。

妻マギー(エリザベス・テイラー)の、自殺した親友との不行跡が原因で酒浸りになった元アメフト選手のブリック(ポール・ニューマン)は、腸の痙攣実は末期がんの父親(バール・アイヴズ)の誕生パーティーに嫌々出て来る。
 彼の兄グーパー(ジャック・カースン)とその妻メエ(マデレーン・シャーウッド)は、父の症状の悪さを知った上で広大な農園を譲り受ける腹積もりで口の悪い父親に甘言を囁くのだが、老父は酔いどれでも次男が気に入っている。しかし、自分はまだ生きるつもりなので、次男に対しても甘い発言は決してしない。母親(ジュディス・アンダースン)は真実を知らない。
 やがて、ブリックの片言隻句から父親は自分の命の長くないことに気付き、地下で彼と激しいやり取りをした後、その真剣味を認め、長男夫婦特にメエに最後通牒を告げる。

誠に激しい葛藤劇で、見応えがあるが、父親と次男の和解から長男夫婦への最後通牒までの最終盤は甚だアメリカ的なハッピーエンドに過ぎ、極めて弱い。双葉十三郎先生の仰る通りである。映画としての弱点はここに尽きる。演技陣は概ね好調で、リズは無理している感じが強いが、頑張っている。
 今回師匠は原作との比較をしないで、映画単独で語っているが、僕のように原作と比較すればハリウッド的甘さが顕著になるし、ほぼ同じ話を主題を少し変えて綴ったが故に現れる作品の脆弱性にがっかりするしかない。

しかし、その原作にも実は二つあり、出版物としての「やけたトタン屋根の上の猫」には二つとも収められている。違うのは後半の第三幕である。舞台の演出をしたイーリア・カザンの要請により第三幕が改訂された。
 一番違うのは、オリジナルでは全く出て来ない父親を出るようにしたこと。映画版はさらにその上を行って、頑固のように見えて実は好々爺である父親が前面に出て来る。主題との絡みもあるが、オリジナルでは父親が出ないことにより余韻が漂い劇的にピタッと(主人公の言い方を応用)収まって終了するのだが、この改訂版は書いたウィリアムズ本人も余りお気に召さないと書いている。況や、映画版をや。

改訂版ではそれ以上に大きな問題がある。主人公の同性愛疑惑が殆ど劇としての効果を発揮していないことである。ヘイズ・コード時代故に映画はほのめかしさえしない(一部の観客が関連付けるかもしれないという程度)。これについて、映画を観た訳者・田島博氏は興味深くも次のように述べている。
 "同性愛にともなう罪悪感は、アメリカの社会と日本の社会とでは、かなりひらきがあり、このひらきを計算に入れてかからないと、この作品はじゅうぶんに理解できない”と。勿論、罪悪感が強いのはアメリカであり、60年も前のこの意見を読んでも、いかに一部自民党議員がデタラメを言っているかお解りになるだろう。

本作オリジナルの設定は以下の通りである。
 主人公が酔いどれになったのは妻のせいではない。フットボール・チームの相棒スキッパーの自殺が原因である。映画でも彼の自殺は出て来るが、その自殺の理由が違う。スキッパーはマギーと結婚した主人公に同性愛関係を断られて自殺するのである。ブリックが悩むのは、彼を自殺に追い込んだこと以上に、自分が世間の嫌う同性愛者がどうか確信がなく、自分が酔いどれになった理由さえ掴めていない。そうした自分自身にも嫌気がさしているのである。
 マギーがスキッパーに近付くのは、夫から去らせる為である。映画はそれを浮気の問題として片づけてしまっている。
 マギーはブリックを愛しているが長いことセックスレスでトタン屋根の上にいる猫の状態に追い込まれている一方、できれば子供も持ちたいと思っている。オリジナルでは、長男夫婦をぎゃふんとさせる為にマギーが、真実を知ってがっかりする義母(戯曲では父親は直接真実を知らされない。母親から父親は舞台裏で真実を知ることになるだろう、というその余韻のみ)に向けて、“実は子供が出来た”と言うのである。これは長男夫婦を黙らせる目的以上に、義母をそしてそれ以上に死んで行く義父を思って、言うのである。次男に期待する義父にとってこれほど大きなプレゼントはないわけで、それを聞いたブリックは妻を見直し、関係を修復しようと考え出す。実に無理なく綺麗に劇として収束しているではないか。

改訂版及び映画版は、ブリックの苦悩を、同性愛絡みではなく、自分を含めた社会の欺瞞(メンダシティ)という形に微温化させ、オリジナルにあった切実さを弱めている。総合的に断然優れているのは、舞台で演じられていないオリジナル版・・・というのは全部に当たった人にほぼ共通する感想であるだろう。

自分を批判するニュースをフェイクと決めつけるトランプが、民主党大統領候補バイデンが自分が勝つと言っているように聞こえるフェイク・ニュースを拡散した。どの面下げてフェイクと言うか。投資信託絡みの資産が3割近く目減りした僕としては、株価がこれ以上下がらないように彼の政策に一応期待はしているが、今回の場合は経済政策以上にコロナ退散が一番の対策だよねえ。

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