映画評「女囚さそり 第41雑居房」

★(1点/10点満点中)
1972年日本映画 監督・伊藤俊也
ネタバレあり

シリーズ第二作。
 第一作はお話として一見成立しているようで破綻しているので良い点が与えられなかった。この第二作は前半は健闘しているが、後半正視に堪えなくなり、大減点するしかない。

梶芽衣子の女囚701号こと松島ナミが、白石加代子以下の女囚6名と護送中に官憲二人(一人は助平ったらしい小松方正)を倒し、歩いて時には筏に乗って逃亡。当然刑務官たちも追い続け、逃走先の近くにある実家を訪れた女囚一人を捕まえるが、故意に後を付けるべく逃がす。

この辺りまでは細かいところに疑問符が付きながらも、逃走する女囚の情念を古典芸能的な演出で見せるなど、伊藤俊也選手(監督ですがね)はなかなか奮闘している。

しかし、この後観光バスの乗客が絡んで来てから急降下するのである。
 観光客三人が峡谷で女囚一人が放尿しているのを発見、強姦して殺してしまう。いくら酔っているとは言え、一般の観光客が真昼間の観光地で強姦死させるなど常識離れしすぎて開いた口がふさがらない。作者はアナーキズムを目指しているのかもしれないが、こういうのを本当らしさがないと言う。

その違法を理由に観光バスを乗っ取った女囚たちも無口な701号を別にすればやりたい放題。劣情を溜めこんだ一部観客に向けた事実上のSMポルノで、女囚の悲哀も逃亡のサスペンスもまるで眼中にない。これでは映画としてつまらんだろう。

家族の目の前で繰り広げる官憲の暴力は独裁国を舞台にした映画でさえなかなか観られないデタラメぶりである。本当の日本らしくなくても良いが、近代以降の官憲というものは独裁国であっても衆人の前ではそういうデタラメをしない。現代人の行動原理に合わないから本当らしさがないということになる。そういうシュールさを喜ぶ観客もいるし、実際このシリーズはデタラメ度が高い第一作・第二作の評価が海外では高いが、映画から行動原理・行動心理学的な基準をとっぱらってしまったら、何でもありになってしまい、却ってつまらなく感じるのが常識人の知性であろう。

終盤の展開は推して知るべし。ほぼ無言の梶芽衣子が格好良いのと、主題歌“怨み節”と挿入歌が抜群なだけに、勿体ない。

五社協定のなくなった1970年代初め、映画会社が競ってエロと暴力に走った。東宝にさえ「御用牙」シリーズのような品のないシリーズがある。松竹だけがメジャー映画会社としての牙城を護ったような気がする。思い出せないだけかもしれないが。

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