映画評「菊とギロチン」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
2018年日本映画 監督・瀬々敬久
ネタバレあり

2018年度瀬々敬久監督は【キネマ旬報】ベスト10で二本入賞した。8位に本年前半に見た「友罪」、2位に本作である。昨日の木下恵介の1,2位独占(1954年度)には及ばずとも、なかなかできることではない。ここ数年瀬々監督は色々なタイプの作品を作り非常に勢いを感じさせるが、僕は大袈裟すぎるので余り買っていない。大袈裟すぎることが長尺に結び付く傾向があり、本作は189分もある。

関東大震災(大正12年=1923年)前後からお話が始まる。
 ヒロインともよ(木竜麻生)は姉の夫と引き直し(兄弟姉妹の死後その配偶者と別の兄弟姉妹が結婚をすること)をした若妻だが、我慢ならずに家を飛び出し、以前見たことのある巡業女相撲に入門する。一門には訳ありの女性が多く、朝鮮半島からやって来た十勝川(韓英恵)が後段で大きな混乱を招く。
 片や、自由で平等な世界を目指すアナーキスト集団“ギロチン社”があり、かなり出鱈目な行動を繰り広げている。社のうち現場のリーダー的存在の中濱鐵(東出昌大)と線の細い若者・古田大次郎(寛一郎)が東京近郊にやって来た女相撲の巡業と遭遇し、中濱は十勝川と、古田は花菊という四股名を戴いたともよと親しくなっていく。
 ある時、かつての出兵が評価されない在郷軍人会が大震災での虐殺と同じ理屈で朝鮮人の十勝川をリンチする。この件では軍人会を逮捕した警察も女相撲巡業に本格的に口を出すようになる。十勝川は姿を消す。“強くなること”を念願としている花菊を拉致しようとする夫から護ろうと古田が頑張る。
 満州で爆弾を仕入れることに失敗した中濱が資金繰りの為に資本家を脅しに出て逮捕されるなどしてギロチン社は消滅する。

実在した結社と実在した女相撲という文化とを組み合わせたところが興味深いわけだが、結社の行動については実話に依るところがかなりあると推測される一方で、女相撲側の逸話はほぼ創作であると推測できる。

女相撲の方は社会による抑圧を象徴し、同時にそんな社会を変えようとする革命家気取りの若者たちを映す鏡となっている。そのアイデア自体は実に良かったと思う。そこを大きく買って少ないとは言えない☆★を進呈するが、瀬々監督らしく以下のように大きく目立つ欠点がある。

序盤女相撲の取り組みをほぼ全て見せ続けるのは冗長にすぎる。ここで相当尺を節約できると思う。終盤に様々な事件が続きすぎ、そうした事件が本来鏡であるべき女性力士たちに集中しがちなのも構成的にややチグハグな印象をもたらす。実際にはどうも、アナーキストたちが女力士たちの鏡となってしまったようでござる。

観ながら、作者の狙いは、閉塞している日本の政治や、一時に比べまた激しくなった一部日本人の在日韓国朝鮮人への差別を突き破る映画を作りたかったのではないかと推測した。実際【キネマ旬報】のインタビューを読んでもそれに近い発言をしている。そんな強い意図が背景にあるのを考慮しても、風俗と言語において大正時代の再現が極めて低いのが残念である。
 風俗では髪型やセーラー服。
 言葉の例。自分の妻を“自分の嫁”などと当時は絶対言わない(“嫁”は本来親だけが言える言葉)し、“ちげえ(違う、のこと)”という言葉もない。現在の若者は“ちげえよ”などと言って“違うよ”の意味としているが、“違う”の自然な母音交替ということはありえないから、名詞“ちがい”の乱暴な形容詞化なのかもしれぬ。この手の発明(変化を通り越している)は平成に起きたものである。

瀬々監督、写真によってはジャン・レノに似ている。

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