映画評「勝手にしやがれ」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1959年フランス映画 監督ジャン=リュック・ゴダール
ネタバレあり

映画界では無軌道な若者を描いた作品が多く新しい潮流を生み出した。本作やルイ・マル監督「死刑台のエレベーター」(1957年)がヌーヴェル・ヴァーグを、「俺たちに明日はない」(1967年)がアメリカン・ニュー・シネマを。
 しかし、後者は古い映画も作ってきた大人が結果的に新しい流れを作ったのに対し、本作の原案を書いたフランソワ・トリュフォーや脚色・監督を担当したジャン=リュック・ゴダールは映画界を変えようとして本当に変えた。そういう違いがあると思う。

これは1978年リバイバルの時に映画館で観た。最近でも、欧米のインディ系映画に、未だにこの映画を想起させる映画に遭遇する。それくらい映画マニアには好かれる作品で、僕のようにオーソドックスな映画を比較的好む人間にもこの作品のカメラは相当魅力的と感じる。人の好みは様々なれど、この作品のフォトジェニックさに痺れない映画マニアはちと寂しい。

車泥棒を働いた青年ジャン=ポール・ベルモンドが、追ってきた白バイの警官を射殺してパリに向い、夏に南仏で知り合ったパリのアメリカ人、ジャーナリスト志願の美人女子大生ジーン・シーバーグのアパートにしけこむ。
 しかし、彼女は彼が警察に終れているのを知り、また自分に冷たいのを面白く思わず、接近してきた刑事に居場所を密告してしまう。それでも逃げてほしいのでその事実をすぐに伝えるが、ぐずぐずしているうちに発見され、結果的に射殺されてしまう。
 こと切れる寸前に青年は「最低だ」と言い、刑事は彼女に「お前は最低だ」と言い換えて伝える。

既にビックリはしないが、今でも新鮮に見られる。ゴダールには苦手意識があるものの、刺激を覚える。

ストーリーはアメリカのB級犯罪映画をなぞりつつ、ゴダールらしいインテリ意識が顔を出し、それが時に退屈を誘う。長編デビュー作の本作などは控え目なのほうで、彼女のアパートでの会話など文学的でやたらに長たらしいが、一種の恋愛論で、政治・哲学的なゴダールより文学趣味のトリュフォー的な匂いが濃厚である為、つまらないと一蹴する気にはなれない。

ネオンサインが青年追跡を告げる様子もトリュフォーの趣味で、ヒッチコック御大のサイレント映画から拝借したように思う。場面転換に使うアイリス・アウトもトリュフォーが好んだクラシックな手法だ。

翻ってゴダール的なのは、まず、警官を射殺するシークエンスの文法無視のカット割り。後ろ若しくは横から警官が来たはずなのに、彼は前方に現れた警官を撃つ。鈴木清純の「殺しの烙印」の如し(影響関係は勿論鈴木監督の方が後発)。複数の警官がいたとも考えられるが、文法無視と理解した方が面白い。
 続いて、ゴダールの代名詞たるジャンプ・カット。街中でバイクが倒れるシークエンスがジャンプ・カットで初めて構成される。どこかサイレント映画的。もっと強烈なのは、ジーンが別のジャーナリストと話している時の数コマ単位のジャンプ・カット。コマは抜かされているのに台詞は自然にそのまま続く。

ヒロインがアメリカの作家(ジャン=ピエール・メルヴィル)とやり取りする部分はゴダールらしい。後年の彼は本人役の本人を登場させて極めて即興的に作るが、まだそこまでは行っていない。

総じて、後年の作品よりはぐっと見やすいので、これがダメならゴダールは大概ダメだろう。

1960年代の初め本作の影響を受けた邦画多し。後年ひどく晦渋になる吉田喜重がデビュー作として作った「ろくでなし」(1960年)は典型。

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