映画評「嘘はフィクサーのはじまり」

☆☆★(5点/10点満点中)
2016年イスラエル=アメリカ合作映画 監督ヨセフ・シダー
ネタバレあり

ニューヨークのユダヤ人上流階級に食い込もうと悪戦苦闘する初老紳士オッペンハイマー(リチャード・ギア)が、同地を訪れたイスラエルの上層部政治家ミカ・ミシェル(リオル・エシュケナージ)に接近することに成功、出世への布石として高級靴をなけなしの金でプレゼントする。
 しかし、その後彼から音信はない。そのまま埋もれるかと思っていた3年後、彼が首相に選ばれてアメリカで開いたパーティーで再会、首相から暖かく迎えられことが周囲に強い印象を与え、フィクサー(仲介者)としてそれなりの力を発揮するも、首相は側近から連絡の交換を止められた為、結局その後の進展は起こらない。
 やがて首相に汚職疑惑が浮かび上がると、オッペンハイマーはその当時者たる自分を消すことで首相のピンチを救い、大金持ちを生み、最後のフィクサーぶりを発揮する。

そこそこ面白いのである。主人公の想像を活用した最後の見せ方も割合上手く、可笑し味を経て、本当は家族すらいなかった主人公の孤独が鮮やかに浮かび上がっていく。可笑し味の中には、主人公と首相の関係が公人と私人として全く対照的であることが含まれる。公人としては事実上関係を無いに等しいのに私人としては厚い友情が育まれるというズレの可笑し味である。

結局主人公は友情の為に孤独な自分を排除する。“可笑しくてやがて悲しき寅次郎”(自作の川柳)ならぬオッペンハイマーの決断が胸を打つ。

ではあるのだが、このアメリカとの合作映画にイスラエルの不純な目的を感じてしまう。首相が主人公の犠牲により生き残り、“この人なしに平和なし”という台詞が出て来る幕切れに、現ネタニヤフ首相に頑張ってもらおうという意図が滲む。露骨ではないにしてもイスラエルの首相(実在の人物にあらず)が副主人公に選ばれた時点でプロパガンダを感じさせるわけで、ネタニヤフのパレスチナへの態度を考えると、本作に感慨を覚えるわけには行かないのだ。僕の考えが間違いであれば良いが、今の段階では否定する因子も見つけられない。

久しぶりにアラン・ベイツ主演の「フィクサー」が観たくなってきた。

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