映画評「俺たちに明日はない」

☆☆☆☆☆(10点/10点満点中)
1967年アメリカ映画 監督アーサー・ペン
ネタバレあり

1973年リバイバルの時に映画館で観た。それ以来10年に一度くらいは観ているので今回が4回目か5回目になると思う。それでも細かいところは色々と忘れているもので、結構新鮮な気持ちで楽しめる。しかし、ブログ開始後14年経つ今日まで扱っていないところを見ると、もう15年以上観ていないことになる。

本作がニュー・シネマの嚆矢である。“タイム”誌が“ニュー・シネマ”と名付けたのだ。性的なこと、いかがわしい言葉などを自主規制するヘイズ・コードが1968年に完全に終了し、現在のレイティング・システムが導入された。暴力についてはさほど厳しくなかったとは雖も、せいぜいジョン・ウェインの西部劇で見られる程度の暴力が限界で、本作の幕切れのような激しい描写はまずなかっただろう。
 事実一部に拒否反応があり、その為に当初アメリカでは当たらなかったと聞く。開放的な欧州で評判を呼んだのが逆輸入されて本国アメリカでもその位置を確立する。恐らく1967年に作られた本作は「卒業」と共に効力を失いつつあったヘイズ・コードにとどめを刺したと言って良いと思う。

1930年。しがないウェイトレスのボニー(フェイ・ダナウェイ)が母親の車を盗もうとした若者クライド(ウォーレン・ベイティ)と意気投合する。彼はボニーに良いところをみせようとして働いた食料品店強盗を皮切りに銀行強盗を重ね、ある時仲間に加えたC・W・モス(マイケル・J・ポラード)の駐車のミスがきっかけで殺人をすることになり、以降警官らを多数殺すことになる。
 兄バック(ジーン・ハックマン)とその妻ブランチ(エステル・パースンズ)を加えたことで活動がうまく行かなくなることが多くなり、やがて兄は殺され、ブランチは逮捕される。負傷したボニーとクライドをC・Wが実家に連れ帰って手当てをするが、これが仇になり、息子の助命と引き換えに父親が二人を官憲に売り、二人は100発近い銃弾を体に受けて息絶える。

現在の映画のように見た目の人体損壊度が激しいわけではないが、問答無用のマシンガンでの射撃にまだ中学生だった僕は言葉を失った。同時に、映画全体に対しては、当時ロマンティストの小僧であった僕は、ドライな内容に心から没入したわけではない。しかし、非常に気になった作品でもあって、直後にノベライズ本を買っている。

監督をしたアーサー・ペンは前年に「逃亡地帯」という秀作を撮ってい、その即実的なタッチをさらに強化した感じで、中学時代を別にするといつも感心するのである。彩度を抑えた画調と相まって時代色の醸成も抜群だ。序盤の写真を連ねる開巻部分は「明日に向って撃て!」(1969年)など後続の作品に強い影響を与えているように思う。

ブルーグラスの名曲「フォギー・マウンテン・ブレイクダウン」が主題曲に選ばれていて、使う場面により印象も変わるのだが、前半快調に逃走を重ねるシークエンスではこの映画の為に書かれたような気がするほど。後半彼らがうらぶれた場面で使われるとこの曲の明るい感じとそぐわず、それがうらぶれた感じを強調する効果がある。乾いた空気感の作品に実に合っている音楽だ。

本作は、アメリカでベトナム戦争反対運動が盛んになり、日本にも飛び火した頃作られた作品。ボニーとクライドは単なる強盗にすぎないものの、1960年代の若者は銀行に体制を仮託し、彼らが見せるちょっとした義賊ぶりに拍手喝采を送ったのではないか。彼らより数年遅れて生を受けた世代の僕はそう想像する。そうした反体制的な内容は“ニュー・シネマ”の半ば共通したテーマになっていくように思う。

ベイティ(当時はビーティと呼ばれていた)は既にスターで本作の製作もしているが、フェイ・ダナウェイが本作により女優としての地位を確実なものとし、その後10年くらい全盛期を誇ることになる。

今日、邦画「止められるか、俺たちを」を見る。この映画が作られた時代の気分が味わえると思う。

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