映画評「真夜中のカーボーイ」

☆☆☆☆☆(10点/10点満点中)
1969年アメリカ映画 監督ジョン・シュレシンジャー
ネタバレあり

TVで観た後1980年頃名画座で観、その後またTVで2回観ていると思う。つまり多分4回目(そのうち3回が原語完全版)。

テキサスの若者ジョン・ヴォイトが自分の肉体でご婦人方を喜ばせる男娼になろうと長距離バスに乗ってニュー・ヨークへやって来る。しかし、想像と現実では大違い、初めて相手になった姥桜シルヴィア・マイルズからは逆に金を取られるわ、酒場で知り合った足の悪い小男ダスティン・ホフマンに紹介された男は男色専門の斡旋業だわで、なかなか思うように行かない。
 金もない為再会したホフマンにその仇名の如くネズミの巣のような彼の住居へ住まわせて貰い、詐欺と盗みとでやりくりする小男に付き合ううちに、性格的には正反対ではあるが同病相憐れむ関係になる。ホフマンが肺病を悪化させた為、彼は遊技場で知り合ったホモの中年男から金を奪って(恐らくこの暴力場面等で当初Xレイトとされた)長距離バスの切符を買い、ホフマンの長年の夢であるフロリダへ向かう。が、バスの中で男はこと切れる。

先日「さらば愛しき女よ」(1975年)でシルヴィア・マイルズを見て本作を思い出し、無性に見たくなった。その前に本作と関連付けたくなる「スケアクロウ」(1973年)を観たので益々我慢できなくなって二十年ぶりくらいに観る。

何回観ても凄い映画と思う。“フラッシュ・バック”という映画用語を僕の頭にインプットした映画なのである。
 例えば、序盤長距離バスの中で母親に捨てられて祖母と過ごした少年時代やガールフレンドとのカー・セックスなどが頭を過るところがある。回想とは違う、実際の人間の感覚に近い瞬間的なフラッシュ・バックの鮮烈なことよ!

一番最初の勤め先を辞める場面で、厳密に言うとフラッシュ・バックではないフラッシュ・フォワード(或いは想像)が出て来る。この手法は、終盤中年男から金を奪い取るところで事実上のカット・バックとして再登場し、ぐっと強烈な印象を醸成する。つまり男から奪うところでヴォイトはホフマンを階上から下ろし外に連れ出すところをフラッシュ・フォワードするのである。主人公の想像という以上に未来の事実なのだろうが、とにかく二つの時間軸のカット・バックであり、ひどく効率の良い効果的な見せ方だと腰を抜かすような衝撃を覚えたものである。
 日本でCMでも使われたニルソンの「うわさの男」を使う呼吸も映画史上でもトップ・クラスの秀逸ぶりで、こんな呼吸の映画を観たら内容をさし措いてその年のベスト1にしてしまう。

その内容であるが、これを友情物語と決めつけることには違和感がある。二人の関係は同病相憐れむと同時に、性格の違うところを以って互いに補完する関係である。特にお上(のぼ)りさんで人の良いヴォイトにとってはこすからいニュー・ヨーク育ちの小悪党ホフマンは必要欠くべからざるもの(者)なのである。彼らがそうせざるを得ないのは当時のニュー・ヨークが他人にひどく厳しい社会であるからで、その現実を英国人ジョン・シュレシンジャーが皮肉っぽく描出したわけである。
 カウボーイという謂わばアメリカの理想像を、売春する似非カウボーイにアメリカを横断させることで、木っ端みじんにぶち壊す。最後に若者がカウボーイの服を脱ぐのはもはやアメリカにそんな理想像などないという意味であろう。メタファー的意味とは別に、彼が現実的に生きることを決心したことがよく解る行動になっている。

翻って現在の日本。貧乏人に対して“自己責任論”を押し付けて寛容さがなくなっている。先月の新聞によれば、国民の自己判断による寛容度では日本は先進国で下位に甘んじている。

「スケアクロウ」ではジーン・ハックマンとアル・パチーノの凸凹コンビが抜群だったが、それに先んじるこちらのダスティン・ホフマンとジョン・ヴォイトも断然素晴らしい。

伝統伝統と盛んに言う保守層の一部が、日本の伝統ではないかと僕が半ば勝手に決めつけている寛容さを失っている。例えば、奈良時代以降の古典文学を読むと、日本人はLGBTに寛容であったこと、即ち“日本にLGBTの伝統はない”という不勉強な一部自民党議員が仰る見解が大嘘であることが判る。それは明治時代に欧米から輸入された150年程度の非伝統的観念である。今年は新元号のおかげで「万葉集」に触れる人が増えるだろうが、それ以外の日本の古典ももっと読みなさいよ。

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