映画評「淵に立つ」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
2016年日本映画 監督・深田晃司
ネタバレあり

カンヌ映画祭「ある視点」部門審査員賞受賞作。深田晃司という監督は初めて観るが、本作で示した力量を見ればこれから注目していきたいと思わされる。

下町で小さな工場を営む古舘寛治が、殺人で服役していた刑務所から出てきた友人・浅野忠信を雇い、家に招き入れる。プロテスタント信者の妻・筒井真理子は、黙って決めた夫に不満であるが、彼がオルガンを練習中の小学生の娘(篠川桃音)に好かれ、彼女自身も正直に過去を告白した彼によろめいてしまう。ところが、翌日に発表会を控えた娘が完成したばかりの衣装を友達に見せに行ったまま帰らず、古舘は浅野が立ち去った現場に頭から血を流して倒れている娘を発見する。
 8年後、娘(真広佳奈)は脳の障害で生存する以外の機能をすべて失い、夫婦は興信所に依頼して行方をくらました浅野の行方を探る毎日。ある日、入ってきたばかりの若い雇用者・太賀が、自分の親が浅野であると告げる。但し、生涯に一度も会ったことはなく、現在の行方も知らない。寧ろ彼は社長から行方を聞きたいと思っていたほどだ。
 一家三人と太賀は、興信所の情報から浅野らしい人物が出没した場所に出かけるが、結局は人違いと判明、絶望した妻は娘と共に川へ飛び込み、古舘と太賀が救いに川に入っていく。

というお話は、歓迎されざるべき侵入者を描く「テオレマ」(1968年)タイプの作品で、幾つかの謎を背後に揺曳させたまま家族の絆について描く。日本映画であるが、最近多いキリスト教フォーマットの作品だから、西洋人に受ける要素があり、評判が良かったのは大いに頷ける。キリスト教的に観れば、罪を犯した人々に神が罰を下すお話であり、狂言回しの浅野を神と解釈することも可能である。彼が約束に拘るのは神だからではないのか?

中盤に撮られた写真の陰画であるが如く4人が横たわる終盤のショットが印象的だが、そのうち娘と太賀は死んだのであろうか? 作者はそれを明らかにしないが、純粋に親たちへの罰の物語と考えれば、若い二人が死んだほうが平仄が合う。水中に沈んでいた娘が上昇していく様子は、まるで天国へ向かっているように見えはしないだろうか。
 映画はそれに加えて家族の絆という命題を観客に示す。「あの男が現われるまで、私たちは家族だった」というキャッチコピーは作者がストーリーの中で示そうとしたものとは実は殆ど逆で、展開上はそれまで冷え切っていた夫婦が、娘の悲劇の後に絆を取り戻すのである。家族の絆を逆説的に浮かび上がらせた内容と考えられるわけで、頗る興味深い。人間という存在について色々と考えさせる近年有数の力作と言うべし。

ISの構成員若しくは同調者が世界各地で自動車テロを起こしている。しかし、欧米の一般の人々は彼らより大人で、何もなかったように過ごし露骨な反応を示さない。幼稚なISにとってこれは面白くないだろう。神でもない彼らに人を殺す権利はなく、アラーは彼らを地獄に送るだろう。

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