映画評「わたしを離さないで」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2010年イギリス=アメリカ映画 監督マーク・ロマネク
ネタバレあり

秀作「日の名残り」(1993年)の原作者カズオ・イシグロの小説の映画化で、人を馬鹿にするのもいい加減にしろと温厚な僕を怒らせた「アイランド」(2005年)と似たテーマを持つ作品なのだが、クローン人間にアイデンティティはあるかというテーマを打ちだしたように見せかけただけのおためごかし映画「アイランド」とはさすがに違って真摯に命を見つめている。しかも、その背景には教育の怖さが揺曳している。主人公たちは運命に抗えないものと諦観して、限りある生を懸命に生きているのである。

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医学(科学技術)の進歩で平均寿命が100歳を超え暫く経った1970年代から物語は始まる。最初の舞台はシャーロット・ランプリングを校長とする英国の寄宿学校で、中学1年生くらいの少女キャシー(イジー・ミークル=スモール)は同級生のトミー(チャーリー・ロウ)に好意を寄せているが、実は彼に邪慳な態度を取っている少女ルース(エラ・パーネル)も同様。

ここで問題となるのが彼女たちは天命を全うすることがない運命、即ち、将来誰かが病気になった時に備えて生まれた臓器提供者になることを運命づけられたクローン人間若しくはそれに類する生命体ということである。

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ハイティーンになって他の学校出身の少年たちと共同生活をする“コテージ”なる場所に移動したトミー(アンドリュー・ガーフィールド)はルース(キーラ・ナイトリー)と恋人同士になるが、ルースには恋人同士には“提供”が猶予される特典があるという噂に則った打算が優先しており、キャシー(キャリー・マリガン)の思いは複雑である。
 それから十年余り経ち、提供者となって衰弱したルースと再会したキャシーはトミーとの愛を復活させ、猶予されることを望んで判定をしているという学校関係者に会いに行く。

本作はSFと言えばSFだが、未来ではなくパラレル・ワールドの現在(現代)を舞台にしたところに純文学たる所以がある。クローン人間は既にいつでも実現可能な技術であるし、さらに自分の細胞から複製した臓器を使って半永久的な命を得ることが早ければ50年後にも実現する(先日観た「ミスター・ノーバディ」の如く)と言われている現状を考えると、未来SFでは命の重さ、提供者と提供されて寿命を長くする非提供者の命の違いを考えるという素材としては使いにくい。よって、今クローン人間をもって生の意味を考えるには、パラレル・ワールドの現在もしくは現代にせざるを得ないのである。

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「アイランド」の展開では、自分の為には大元である人間の命さえ奪うクローン人間は見た目はともかく、人類に脅威を与える怪物にすぎない。その怪物が彼(ら)を支援する馬鹿な人間とハイタッチして終わるというふざけた「アイランド」において、クローン人間のアイデンティティといった一見高級なテーマがアクションを見せる為の見せかけにすぎないことをちゃんと見ていた観客には解った筈である。
 あの作品が意味を為すにはクローン人間が実際に闊歩する時代が到達するまで待つ必要があるし、仮にその時代が来てもクローン人間ではない一般人には永遠に関係のないお話であり続ける。我々はクローン人間の命を考える前に我々自身の命について考えなければならない。よって、人間が観る映画は彼らのアイデンティティまたは命が我々の生活感情に自然と共鳴するように作られなければならない。

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翻って本作ではどうか。
 限られた命であることを教育により刷り込まれそれにどうしても抗えない人生観の中で、言わばその対極に位置する、生命の礎若しくは原点と言っても良い恋愛感情に登場人物たちがもがく姿は見事にまで切ない。クローン人間にすかして我々の人生の悲しき営みが見えるではないか。そして、それは「日の名残り」の秘めたる愛情を抱えたあの老人のものと通底する諦観であり哀しみである。

2002年に「ストーカー」(アンドレイ・タルコフスキーの同名映画とは無関係)を撮ったアメリカ人のマーク・ロマネク監督が「日の名残り」若しくは他のジェームズ・アイヴォリー監督作品を参照したような英国調の静かなタッチも胸に迫る。

不老不死ではないから人生には喜怒哀楽がある。それに気付かなかった始皇帝は阿呆じゃよ。

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