映画評「アレクサンドリア」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2009年スペイン映画 監督アレハンドロ・アメナーバル
ネタバレあり

映画の良い部分の一つは、書物より簡単に知らないことを教えてくれることである。
 ローマ帝国に本作のヒロインのような女性がいたとは知らなかった。いや、学校の授業ではキリスト教を公認したコンスタンティヌス1世や国教としたテオドシウス1世を教えてくれても、その為結果的に優れた才能を文字通り散らされた一人の女性哲学者(当時の哲学者は即ち科学者である)の名前など教えてくれない。ヒュパティス渠(かれ)なり。

4世紀末アレクサンドリア、数学者として知られる図書館長テオンの娘として生れた彼女(レーチェル・ワイズ)は、新プラントン主義学校長として宗教・身分を問わず教えるが、次第に勢力を伸ばして来たキリスト教徒がローマの神々を愚弄したことから抗争が始まり、仕掛けたテオン側が図書館に閉じ込められることになる。
 図書館から重要な書物(当時の書物は全て重要だろうが)を持ち出した彼女は別の場所でひっそりと学問特に天文学を研究し続けるが、かつての弟子たちの中でも出世頭のオレステス(オスカー・アイザック)はアレクサンドリア長官になり、分裂してできたばかりの東ローマ帝国においてキリスト教の頂点に立つキュリロス主教(サミ・サミール)が彼の権力をも奪還しようと、弱点であるヒュパティスを矢面に立たせる。

ガリレオは教会に迫られ地動説を捨てることを余儀なくされ「それでも地球は回っている」と妥協したが、(あくまで映画での描写において)既にアリスタルコスの説を発展させて地動説(太陽中心説)を確固たる説にしつつあった彼女はキリスト教の強権に屈せず、“魔女”として悲惨な最期を遂げることになる。伝聞では映画より悲惨で、生きたまま肉を削がれたという。

キリスト教教会の頑迷・狭量から悲劇に遭った人物の作品は幾つも観て来たが、現在この作品を通して見えてくるのは東西文化対立と言われるイラクやアフガニスタンでの戦争である。
 僕らはイスラム教の因循姑息をとかく問題にしがちだが、そこでの戦争を始めたブッシュ大統領はスペースシャトルを幾つも飛ばしながらも宗教的には地動説や進化論を否定する原理主義的立場であると言われている。

原点に立てばどの宗教も大して変わりはなく、その原理を遵守する余り違う考えを持つ人間に対して余りに苛酷である。キリスト自身は人間のネガティブな要素をも受容し他人に寛容であれという考えであったことが読み取れるのに、「新約聖書」も後半即ちキリストの伝記的部分を過ぎた辺りになるとどうも寛容さが減じてくるような気がしてならない。

僕の理解では権力欲にまみれた主教などキリストの教えを守っているとはとても言えず、ただ一人一家の奴隷であったダオス(マックス・ミンゲラ)のみ彼女を窒息死させることで神に近づけさせ、キリスト教的行為を果たすのである。

勘違いしてはいけないのは、彼女が拘ったのは彼女が信ずるローマの宗教ではなく、僕らが当り前のように思っている自由に物を考え発言する権利である。近代までキリスト教教会がそれを認めていなかったのは誰もが知る事実であり、今でも原理主義者はそれを認めていない。

アレハンドロ・アメナーバルとしてはミニシアター系ではないスペクタクル要素のある大作の中に愚かさを軸に人間なるものをきちんと描いて、大変興味深く仕上げた。楕円と引力(と慣性)らしきものの発見から地動説に接近していく過程も頗る面白い。

映画界はリメイクと続編ばかりでなくこういうネタをどんどん発掘して欲しいですねえ。

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