映画評「パリは燃えているか」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1966年フランス=アメリカ映画 監督ルネ・クレマン
ネタバレあり

レジスタンス活動家でありドキュメンタリー映画出身のルネ・クレマンがその前身の力を遺憾なく発揮した戦争映画である。

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1944年8月、自ら暗殺未遂の憂き目に遭い、パリにフランスの装甲師団とアメリカの第4師団が迫って尻に火のついたヒトラー(ビリー・フリック)は「撤退する場合にはパリを焼き尽くせ」と命令、その役を負う占領軍司令官として派遣されたのがコルティック将軍(ゲルト・フレーべ)。
 その一方、出来たばかりの臨時共和政府の自由フランス軍首領ロル大佐(ブリュノ・クレメル)は自力でパリ解放を目指し、市街戦が始まる。彼とは意見を異にするドゴール将軍の幕僚シャバン(アラン・ドロン)は迂回することを決めた師団を最初の予定通りにパリに戻そうと奔走し、中立国スウェーデン領事ノルドリンク(オースン・ウェルズ)を駆り出す。領事は古い都市パリを保存すべく将軍と折衝、連合軍が訪れるまで時間を稼ぐ。

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連合軍がパリに入ってくる辺りから若干だらだらする傾向が出て来るが、それまではレジスタンス右派と左派、占領軍司令官、スウェーデン領事といった面々の画策が連合軍到着までにどう作用するか、一種の時限サスペンスの様相を呈して見応えたっぷり。
 当時のドキュメント・フィルム(下記画像参照)を映画用に撮影したフィルムと自在に繋ぎ合わせて構成しているところも感慨を催させる。僕がフランスの数多い優れた監督の中で最も敬愛する監督の一人クレマンの本領を感じさせる部分である。他の戦争映画におけるフィルムの使い回しとは意味が違う。

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かくして本作はパリ解放までの過程自体を描くことを主旨とした作品と理解できるから、allcinemaのコメントのように「主役不在」といった登場人物の描写バランスを以って批判するのは見当違いであろう。「主役不在」は作品の狙いなのである。
 映画の主役は眼に見えるものと考えるのがそもそも間違いで(群像劇というジャンルが確立しているように映画において限定的な人物が主役を務めなければならない言われもなく)、そうした固定観念に囚われた批判は、解放にパり中が湧き、誰もいなくなった占領軍司令室の電話から「パリは燃えているか?」とヒトラーのものらしき怒声が聞こえて来る幕切れの感動の前には全く無力である。何故この場面が感動的なのかと言えば、「主役不在」即ち平等な扱いにより紹介される無数の人間、実際には映画に登場さえしていないパリ市民の解放への思いが現実化したことがヒトラーの叫びを空しくしているからである。

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ところで、本作は仏米合作なので、それぞれの言語バージョンがある。今回観たのは比較的理想的なフランス語バージョン。しかし、あくまでベターなのであって、理想ではない。
 僕はアメリカ人やドイツ人がフランス語を喋っても良いと思っている。但し、【物語の展開において複数の言語が交わらないという条件の下で】である。つまり、本作のような大がかりの戦争映画ではその民族は必要な場面を除いてその言語で話さないといけない。さもないと、場面の交錯において却って混乱させる面が出て来たり、外国人が偽装する場合などで面白さが減殺されてしまう。例えば、本作には自由フランス軍の幹部軍人(ピエール・ヴァネック)がカーク・ダグラス扮するパットン将軍と話す場面があるが、僕はこの時「実際にはフランス軍人がフランス訛りの英語で話したのだろう」と余計な想像を巡らす羽目になっていたのである。

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大スターが端役で出演しているのを観るのも楽しいので、既に述べた俳優以外を以下に列挙しておきましょう。
 グレン・フォード、レスリー・キャロン、シャルル・ボワイエ、ジョージ・チャキリス、アンソニー・パーキンズ、イヴ・モンタン、シモーヌ・シニョレ、ミシェル・ピッコリ、ロバート・スタック、ジャン=ポール・ベルモンド、ジャン=ルイ・トランティニャン、ダニエル・ジェラン、ジャン=ピエール・カッセル、クロード・ドーファン、E・G・マーシャル(クレジットなし)など。

オールド・ファンは偲ぶ、「クレマンは燃えていた」と。

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