映画評「たそがれ清兵衛」

☆☆☆☆★(9点/10点満点中)
2002年日本映画 監督・山田洋次
ネタバレあり

2003年映画鑑賞メモより。

山田洋次監督の初めての時代劇として注目を集めた話題作だが、見事な秀作である。

舞台となるのは現在の山形県に当たる庄内海坂藩(恐らく鶴岡藩を想定)。
 下級武士・清兵衛(真田広之)は労咳(=肺結核)で妻を失った後娘二人とボケが始った老母を食わせる為に遊びの類を一切せず定刻に帰宅する為<たそがれ清兵衛>と呼ばれている。
 その頃友人の妹で幼馴染の朋江(宮沢りえ)が酒乱の夫(大杉漣)と離縁して舞い戻るが、追いかけてきた夫が彼女の実家で暴れ回る。見かねた清兵衛が現場を仕切った結果果し合いを申し込まれてしまうが、翌日短い木刀のみで一蹴してしまう。
 これが終盤クライマックスへの伏線となる。
 
そして、友人から「妹と再婚しないか」と言われ即座に断ったものの実は彼の彼女への思いは言葉に出来ない程強いものがあったのである。
 これも終盤に大きな意味をなす。

ある侍(田中泯)が命じられた切腹に応じず、派遣した刺客を殺し処置なしの為先般の木刀事件で腕を見込まれた清兵衛に侍を殺す藩命が下る。応じないわけには行かず、朋江を呼んで身支度をさせる。
 この場面で彼は愛を告白するのだが、彼女は縁談を決めた直後だったので複雑な思いを抱く。いざ決戦。奇妙な話し合いの後結局斬り合いになり、運も味方して相手を倒す。

そして清兵衛がよたよたと帰宅すると思いがけず朋江が待っていた、という物語が明治末頃(?)に清兵衛と朋江が眠る墓に花をたむける次女(岸恵子)の回想という形で展開する。

余り映画を観ない人には<淡々>と映るかもしれない(そういう批判が散見する)が、即実的な描写から必要な情緒はしっかり醸成されている。芸術として映画監督に最も求められるのは写実性であり観照の姿勢である。明らかに感情的な描写が必要なものを除けば、<淡々>が芸術において批判される理由はない。

上映時間は2時間を越えるが実質的に無駄はなく、全てが相互に有機的な連関を持っていることは冷静に判断すれば解る。allcinema ONLINEの<盛り込まれたエピソード同士の繋がりに乏しい>という解説には疑問を呈したい。
 岸恵子が登場する幕切れが蛇足と言う人も多いが、それも理解不足ではないか。何故次女の回想だったのかきちんと理解すれば、感慨を深くする効果こそあれ、蛇足ではないことに気付くであろう。
 この話自体が墓へ向う途上無意識に彼女の胸に去来した想いが観客に向けて翻訳されたものと解釈するのが妥当。従って、回想形式を取ったのはこの幕切れ故であり、最後に彼女が登場するのは必然であり、だからこそ最初に岸恵子を登場させなかったのが作劇として実に巧妙と言うべきなのである。
 そして、その根幹は基調である肉親の情である。何が本当の主題だったのか。「男はつらいよ」48本やその他の現代劇と本作が全く無関係であるはずもない。

あるいは当時五歳だった次女の視点で語ることは無理があるというこじつけのような批判も、現実と映画的リアリティとの混同である。その時の彼女の記憶と後に姉や義理の母から聞かされたであろう物語が渾然一体となって観客の前に差し出されたのであって、実際に彼女がそのまま見た情景と解釈するのは無謀と言わざるを得ない。

企業戦士と呼ばれることの多い40代以上の会社員にはとりわけ胸に迫る物語であろう。
 当時の下級武士には現在の会社員とは比べ物にならない悲哀があったにちがいないが、時代を映し続ける山田監督が本作の武士に会社の歯車となって働いているサラリーマンを重ねていることは容易に理解できる。さもなくば彼のような作家が時代劇を作る必要はない。
 現在のサムライもなかなかにつらい。僕自身もそういう時代を過ごし、遂に浪人となった。今は傘張りで生計を立てている(笑)。

出番は少ないが殺陣も切れ良くかつダイナミックで、これが時代劇を初めて作った人のものかと思わせる。時代劇映画が少ない時代だけにこれは時代劇ファンには嬉しい贈り物だったはずで、山田監督は<上手い人は何を撮っても上手い>という持説をきちんと証明してくれた。

真田広之、宮沢りえも円熟の演技。お見事でござる。

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