映画評「A・I」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2001年アメリカ映画 監督スティーヴン・スピルバーグ
ネタバレあり

元々は故スタンリー・キューブリックが温めていた脚本をスピルバーグが補完するような形で映像化された作品だが、スピルバーグらしく実に柔らかい印象の作品となっている。キューブリック自身が撮ったらかなり印象の違う作品になったはずである。

それほど遠くない、しかし、人間と殆ど見分けが付かないアンドロイドが開発されている程度の未来が舞台で、一台の少年型アンドロイドが植物状態になった息子の代わりとしてある家庭にやってくるのだが、いざ息子が復活するとゴミのように捨てられてしまう。そもそも極めて人間的に設計され、かつ学習能力のある人工知能(A.I.)を埋め込まれたアンドロイドは自らが本当の少年になる願望に加え、この事件を契機に未来永劫に渡り“母親”を慕う運命を背負わされる。

作者(どちらかと言えばスピルバーグ)は未来版の「ピノキオ」と「汚れなき悪戯」を作ろうとしたと解釈できるが、映画は彼が海に沈むと瞬時に2000年後というとんでもない未来へ我々を飛ばしてしまう。この瞬間のスリリングなこと。ドラマは勿論省略の芸術たる映画ではこうした「そして何年」的な展開は不可避であるが、その場面転換にはキューブリックの「2001年宇宙の旅」で猿人が投げた骨が宇宙船と入れ代わるカットに近い興奮を覚えた。僕だけかな。
 そして、少年型アンドロイドは邂逅した未来人に頼んで“母親”を一日だけ蘇生してもらうのだ。宇宙時間という制約がある為それ以上は不可能ということになっている(この設定がうまい)のだが、彼は母親の“二度目の”死と共に自らの機能維持装置のスイッチを切る。

彼が人間でないからこそこの幕切れにはうち震えた、<人間でないものが自らの生命を絶つ>という行為に崇高な寓意を感じて。アンドロイドを通して(人間に似て最も人間から遠い存在として彼を位置づけることで)逆説的に人間の心の中を覗き見しようとした作品に思われて仕方がない。
 
アンドロイドを演じたハーリー・ジョエル・オズメントはその人形のような容姿をもってこの映画に命を吹き込んだ。彼なしには僕もこれほどの感動を覚えることはなかったと思う。

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