映画評「神々の深き欲望」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1968年日本映画 監督・今村昌平
ネタバレあり

一番好きな今村昌平の作品は「にっぽん昆虫記」と思うが、長い割によく見るのはこの作品で、今回が恐らく4回目の鑑賞。今村監督の初カラー作品ということだが、彼はモノクロでもカラーでもパワフルで凄味がある。

舞台は北緯20度あたりにあるくらげ島。
 実際にこの緯度にある日本の島は無人島の沖ノ鳥島しかないので、画面から想像される八重山諸島が舞台というわけではなく、架空の島である。従って、八重山の言語を喋らせろというのは無粋な要求で。誰でも解るどこかの方言もどきの標準語だから普遍の意味が出て来るのである。

敗戦から20年後の日本(という時点でモデルが八重山諸島でないことが解る。当時の八重山諸島はアメリカである)。古俗を残すくらげ島に、製糖会社の幹部技師・刈谷(北村和夫)がやって来る。
 島は工場長にして区長の竜(加藤嘉)が牛耳っているが、その彼でも、祭祀に関しては太(ふとい)一家が関わっている因習に逆らえない。のろという巫女を代々生み出してきた家だからで、現在ののろ・ウマ(松井康子)は竜の妾でもある。
 巫女にして娼婦というのは、ギリシャ神話など古代ではよくある(というより国家が確立する以前の母権社会では必然的な)もので、その古代性を強く感じさせる。

その一方で、一家は尽く、祖父(嵐寛寿郎)が娘との間に設けた根吉(三國連太郎)が密漁をしたことを直接の理由に、根吉の妹ウマとの近親相姦も疑われ、差別されている。彼の悪行の権現が大きな岩の出現とされ、戦友でもある竜に命じられて20年も大岩を落とす為に穴を掘っている。
 息子・亀太郎(河原崎長一郎)は刈谷技師に仕え、知恵遅れの娘トリ子(沖山秀子)はやがて刈谷を虜にする。いつしか島のスローライフに引き込まれていた刈谷はトリ子と結ばれて島に残ろうとするが、結局自分が所属する経営者一族の命令に逆らえず帰京する。
 間もなく竜が腹上死し、根吉と自由になったウマが無人島を目指して島を出るが、竜の妻に根吉の犯行であると嘘を吹き込まれた村人は二人を追いかけ、根吉を殺して海に投げ込み、ウマをマストに縛って見殺しにする。
 同日なのか後年なのか不明だが同じ月日にトリ子も死んだらしい。5年後、太家の跡地に作られた滑走路を使って妻や母を伴って島を再訪した刈谷に、今は鉄道運転士になった亀太郎が “今日が父と妹の命日” と言うからである。刈谷らはトリ子が化身したと言われる岩を見る。

今村は二作前の劇映画「人類学入門」で文明批判を試みたが、この映画にも文明批判があるだろう。今村作品ということで、庶民の生と性におけるバイタリティーのみで語るのは余りに矮小にすぎよう。
 結局、神話時代に生きて来たような太一家は、亀太郎を除いて滅びてしまう。彼が滅びなかったのは物質文明に頭を下げたからである。そんな彼でも一度は働いた東京から故郷の島に戻って来る。彼を見ればこの映画の示唆する一端が解るだろう。

権力者が自らの一族の始まりを描いた「古事記」や「ギリシャ神話」といった神話群、あるいは旧約聖書の神話時代(聖書主義の人は事実とするが、科学的に考えて事実であるわけがない)の話では、近親相姦が避けられない。何故なら聖書で言えばアダムとイヴしか人類がいなかったわけで、彼らの子供が近親相姦せずには後継者が生まれないのが生物学的な理屈である。
 従って、神話的解釈によれば、太一家の近親相姦は彼らにとって当然のことであるが、それを文明的尺度で図ると不道徳になる。現代のアダムとイブを目指した兄妹は、文明社会の論理において、滅びるのが運命なのである。

同時に、本作は、アメリカの影響を受け続けた戦後日本をも透かして見せたと思う。終戦直後に突然現れた巨石はアメリカ(の影響)そのもので、その象徴としてコカ・コーラが大きく扱われる。刈谷技師も当時流行っていた日本のコカ・コーラのCMソングを歌っている。巨石を排除した太一家は、ここでも、大きな力によって排除される運命なのである。

最初は単なる痴呆にしか見えなかったトリ子が途中から純粋そのものに見え、小汚い格好をしているが精神的に美しく感じられて胸を打たれた。太一家は全員純真であったと思う。

トリ子が技師を虜にする。今村たちはそこから名前を考えたか(笑)

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