映画再鑑賞後小説「ハワーズ・エンド」を読む

 三週間くらい前に、ジェームズ・アイヴォリー監督の「ハワーズ・エンド」映画評をアップした。四半世紀以上ぶりになる再鑑賞であった。一時原作となったE・M・フォースターの同名小説を読んでから観る腹づもりであったが、急遽マイ・ライブラリーからピックアップして観てしまったのだ。

 米国出身の小説家ヘンリー・ジェームズが英国的な小説を書いたように、ジェームズ・アイヴォリーは米国出身ながら実に英国的な作品を撮る。私淑する双葉十三郎氏の言葉を借りれば、良い時の英国映画の感覚を十分満喫させる監督である。本作も、カメラを含めて、英国貴族調(何度も言ってきたように僕が作った映画用語)な佇まいがたまらない。

 さて、ブログ友達や我がブログの常連訪問者なら拙評に多かれ少なかれ同調してくれるという思いは外れ、なかなか厳しいコメントが寄せられた。そこで原作を読んで少し検討してみようという気になり、池澤夏樹個人編集の『世界文学全集』のバージョン(吉田健一訳)を借りて来た、というのが経緯。お話は映画と殆ど同じだが、バランスが違う。結果的に印象が違って来るところがないでもない。

 15年以上に及ぶブログ友達の十瑠さんは、運命論的であるという我が印象に近いものを覚えたらしい一方、 “色々と無理くりな設定、展開が感じられた” という昔の自身の記事から引用してコメントされた。
 僕はこの程度であればさほど抵抗は覚えないのあるが、解説もする池澤夏樹がフォースターの傾向について、“プロットがなかなか派手で奔放で、思わぬ展開をする”と仰っている。十瑠さんの感想そのままである。さすがに十瑠さんと言ったところ。
 補足すると、プロットは派手だが、描写は淡白で、人が死ぬところでも敵対する人物が出合った次の瞬間にもうどちらかが死んでいたりする。うっかりすると死んだことに気付かないまま読み進んでしまうくらいである。

 一昨年から我がブログの読者になってくれたモカさんも、十瑠さんと似た考えで、特に主題展開上重要な下層階級のレナード・バストについて、作者が扱いに困って死なせてしまったのではないかという疑念を呈された。池澤が言うには、フォースターは作者の特権乱用と思われかねないくらいしばしば人を殺す(文意であって表現は違う)と。なるほど彼もモカさんと近いことを考えている。モカさんもさすがだ。
 池澤の解説を総合すると、フォースターのモチーフは対立するもの同士の理解であるように理解できる。僕はそれを融和と表現した。理解と融和とは似て非なるものと思うが、とにかく僕は対立する階級(中産階級と労働者階級)の融和という結論を前提に、作者が演繹的に話を構築していったと考えたので、モカさんの疑念は理解するものの、扱いに困ったわけではないと今でも思う。

 しかるに、小説では、映画で受ける印象より融和というムードが希薄。僕の映画に対する主題の理解もあながち間違いというわけではないだろうが、小説の主題はやはり対立するもの(者)同士の理解と考えるのが妥当なようである。

 モカさんは、さらに、マーガレットは何故ヘンリーと結婚したのか?という疑問を投げかけた。モカさんは鋭さをここでも発揮している。“これほど離れた二人を結びつけることができるだろうか”が、この小説の命題・課題なのだと池澤氏は述べているのだ。着眼のスタートは違うのだろうが、結果的に同じことに帰着する。
 僕は、家をなくして困ることになるマーガレットは案外打算的なのだと思うと答えた。勿論、インテリのマーガレットだから、ミステリー的な、或いは、先日お金目当てで結婚した老富豪を殺害して逮捕された日本のあの女性のような経済欲的打算ではない。もっと精神的な打算であるが、僕の理解と表現は少し足りなかった。
 小説に比べて映画では二人の心情の接近が拙速に感じられ、モカさんのような疑念が生じる。小説の終盤、彼女の妹ヘレンは姉が結婚した理由を理解した、と書かれている。しかし、その前後を読んでも僕には明確に解らない。それでも、小説は、マーガレットとヘンリーはある一週間でそれまでの2年間に倍する急接近を成したと表現している。これを前段にマーガレットが一種の打算的挑戦を考えたに違いないのである。
 
 その説明の前に彼らの立場について少し説明をば。映画評には、中産階級に上下の階層が絡んで・・・と書いたが、厳密には違うことが小説では明快に解る。恐らく身分的に一番高いのはヒロインの一族である。ヘンリーの一家は言わば成金で、知性では彼女の一家にまるで及ばない。あの程度の知性や精神性ではお里が知れている。実際の資産で差があるので、ヘンリー・ウィルコックスの一家が上に見えるだけである。ヘンリーのやがて故人となる妻をヴァネッサ・レッドグレーヴという貴族の雰囲気を漂わす名女優が演じた為に映画では身分的にもウィルコックス家が少し上に見えたのかもしれない。

 閑話休題。
 マーガレットは、知性や精神性で自分より劣るヘンリーを何とか御する=自分の世界に近付けることができると考えた。これが一文にもならないが彼女にとって重要な言わば “打算” であった。これがフォースター以外であれば、結婚した後に起こるであろう不一致に対する計算という設定になろうが、彼の作品世界においては、それ自体が半ば結婚の目的となり、挑戦的な実験となる(フォースターは直接的にそう書いていないので、あくまで僕の理解にすぎない。彼の文学的実験とも言えようか)。ただ、結婚すれば家を失う心配がなくなるという思いもあるにはあったであろう。ただ、それでは三文小説に過ぎなくなってしまう。
 結局彼女の目論見は外れ、企図は失敗に終わったたようなのだが・・・。そこで作者が出したウルトラCがレナードの死、過失致死させたヘンリーの息子の逮捕であったのかもしれない。マーガレットは、現実の精神世界で世界観の違う二人は理解し合えないと思い、死後の世界での再会(そして理解)にまで思いを馳せる。

 僕の総合的印象では、小説はあくまでマーガレット(とヘンリーの関係性)がテーマである。ヘレンとレナードは彼女の心情を比較対照し、或いは、浮き彫りにするツールに過ぎない印象だ。実際、比率としてはレナードは殆ど印象に残らない程度にしか述べられない。
 甚だ興味深いのは、マーガレットとヘレンがレナードを接待している最中にヘンリーと娘が訪れる場面。小説でも映画でもレナードはひどく怒るが、実はこの時ヘンリーは(マーガレットとの関係を前提に)レナードに嫉妬していたというのだ。このエピソードを見ても、小説ではヘレンとレナードは映画の印象とは違う役割を果たしているような気がする。

 映画評で、オースティンの「高慢(自負)と偏見」を思わせる雰囲気があると書いた。池澤は、こうした小説群を縦糸(経)に編んでいったのがこの「ハワーズ・エンド」である旨述べている。この辺りの僕の意見は全くの正解であったと言って良いだろう。

東京オリンピック期間中は、他国での五輪以上に、専念する気でいる。映画はまず観られない。一応記事を毎日アップするつもりなので、色々と無い知恵を絞っている。本稿はその第一弾とも言えないでもない、とご理解くださいませ。アイデア募集中(笑)

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この記事へのコメント

モカ
2021年07月21日 21:35
こんばんは。

こうなったら私も読まないといけませんね。池澤夏樹の全集は重いのでみすず書房から出ている小池滋訳でいってみます。 夏休み明けにはレポート提出できるよう頑張ります。

オースティン 「高慢と偏見」 
 「分別と多感」がより近いですね。
アン リーの映画、「いつか晴れた日に」でもエマ トンプソンが長女でした。
オカピー
2021年07月22日 10:12
モカさん、こんにちは。

>小池滋訳でいってみます。

訳者が違うと、また印象が違って来るかもしれませんね。
さすがに二つは読めませんが(笑)。
モカさんの印象で、比較出来たら良いと思います。

僕は映画は俯瞰で観、小説はざっと読み(スピードが命・・・笑)、丁寧さに欠ける傾向があるので、読み落とした部分を教えてもらえると有難いです。

>「いつか晴れた日に」でもエマ トンプソンが長女でした。

素晴らしい作品でしたねえ。
読書家でもある僕は小説と同じ邦題で公開して欲しかったですが、日本の一般客の知識を考えると仕方なかったでしょうか?
2021年07月24日 11:21
最近は眼鏡が合わなくなって、字を追うのが億劫にもなっているジイジの十瑠です。(笑)
なので小説関係もとんとご無沙汰で「ハワーズエンド」を読む予定も無しでごわす。

映画「ハワーズエンド」もアイヴォリーの語り口を楽しみながら観ておりまして、ルースがマーガレットに“ハワーズエンド”を見せたいと言い出した頃から、この彼女の生家でもある屋敷の行く末が気になり出したように覚えています。
だから最後にルースの希望が叶うのが運命的で物語として(僕は)面白いわけですが、そういう風にするために(又は成るために)ちょっと強引な展開もあったように感じた次第です。

全体的な物語のモチーフについてはこの作品については考えませんでした。
右脳派ですので・・。
オカピー
2021年07月24日 21:52
十瑠さん、こんにちは。

>字を追うのが億劫にもなっているジイジの十瑠

僕は近眼。もう10年くらい前から眼鏡をしていると近くが見にくくなりましたが、眼鏡を外せばばっちりなので、本を読むのは全く問題ないのです。
強い近眼の利点はこれのみですね。
 ド田舎につき、後10年くらいは車に乗れないと困るわけですが、眼鏡がもう限界でして、いつもかつかつで免許を更新しているような次第。何とか良い対策がないかなあ?

>この彼女の生家でもある屋敷の行く末が気になり出したように

僕の意見ではないですが、ハワーズ・エンドが主人公だと仰る御仁もいらっしゃいます。

>右脳派ですので・・。

ふーむ。十瑠さんは結構論理的に分析されていることが多いような気がしますがねえ(笑)