映画評「太陽の中の対決」

☆☆☆(6点/10点満点中)
1967年アメリカ映画 監督マーティン・リット
ネタバレあり

十代で一度、ある程度の年齢になって一度観ているので、都合三回目と思う。それほど良い出来でもないのに観るのは、やはり今の映画が本質的に面白くないからだろう。1960年代以前の映画は、現在の映画と並べると、昔より星を増やしたくなる。

映画では主人公ポール・ニューマンの背景が解りにくいのだが、恐らく少年時代にアパッチに育てられた白人で一度ラッセルと呼ばれる老人に育てられた後再びアパッチの住居に戻り、さらに、昔からの知り合いで駅馬車業もする酒場店主マーティン・バルサムに説得され、老人の残した下宿屋を相続する為に白人世界に戻って来る、というところだろう。
 その下宿屋を管理するのがダイアン・シレントー(ショーン・コネリーの元奥さん)だが、ニューマンは所有者として売却し、彼女や住人ピーター・レイザーとその恋人マーガレット・バイル、臨時馬車の資本を出した居留地管理者フレドリック・マーチとその若い妻バーバラ・ラッシュとを同乗者に、町を出ることにする。

ちょっとした駅馬車スタイル。この臨時馬車の乗車券を無理やり奪って乗り込んだリチャード・ブーンの内通により、マーチが持ち逃げしようとしている大金を狙って強盗団が襲い掛かる。その中の一人はダイアンにプロボーズされて断った元保安官で、彼女と所帯を持てば長生きできたものを、呆気なく早々にニューマンに殺されてしまう。

以降、ニューマンが、山岳乾燥地帯を、バルサム以外は殆ど役に立たないどころか足手まといにしかならない連中を引き連れて移動しながら、悪党一味を倒す算段をする。

面白いのはニューマンの性格で、アパッチ育ちで居留区のインディアンの惨状を知っている為白人の理想主義を嫌い、とりわけマーチ夫妻に対して冷たい態度を取るが、結局予め人質に取られていたバーバラを救う為に彼は動かざるを得なくなり、相手を倒すも自分もやられる。
 主人公は正義漢でないと言われるが、僕は彼こそ本当の正義漢と思う。育ち故に白人のキリスト教的な善性など全く信じない人間観を持つが、ダイアンがバーバラを救おうとするのを見ると無視することができず、居留区に金を届けろと言い残して事実上の決闘に臨む。日本では暗黒街に身を置く高倉健がやりそうな人物像である。

別にハッピーエンドや観戦懲悪を期待するわけではないが、双葉十三郎氏が仰るように、このお話の構図の中で彼が死なねばならぬ作劇上の必然性がなく、その為に彼が死ぬことになるマーチ夫妻が共に生き残る為、後味が実に悪い。マーティン・リットという真面目一方な作風の人物が監督をするから、それが余計に強調されてしまう。同時に、真面目なタッチなので、冗漫なところも目立つもののきちんとした映画を観たという印象は持てる。

アメリカン・ニューシネマ直前の作品ながら、インディアンへの同情はそれを先取りしている。翻せば、ニューシネマ以前にニューシネマ的な気分を持った作品が作られていたことがこの時代の映画を観るとよく解る、という次第。

今回(新訳だろうが)字幕が “インディアン”となっていたのが良い。これを相手を慮る用語 “先住民”としたら、気分的にニューマンの怒りと齟齬する。元来差別用語でないので当然の処置に過ぎないのだが。近年原語で Indian と言っているのを先住民という微温的な訳語に逃げているのを見てイライラすることが多かっただけに、すっきり見られた。

差別は良くないが、言葉自体に差別を含むものはそれほどない(一部差別の為に生れる言葉もある)。結局使う人の問題だ。因みに、障碍は障害の代りに生まれた言葉ではない。戦後、恐らく当用漢字の関係で障碍が障害に置き換えられた。つまり、元に戻ったのだ。勘違いしている人が多いので一言。

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