映画評「地の群れ」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1970年日本映画 監督・熊井啓
ネタバレあり

プライムビデオの無償ラインアップに発見したので、観てみた。朝観終わり、たまたま図書館に出かける日だったので、予定の本に加えて急遽井上光晴の同名小説を借りて来、本稿の粗稿を書く前に完読した。
 映画に解りにくいところがあったからだが、逆に映画を観ていたから小説がよく理解できたところもある。というのも、ジャン=ポール・サルトルの「自由への道」のある巻に似て、違う場面の台詞が切り替えなしに連続(交錯)するところがあるからで、映画を観ずに読んだら何のこっちゃという印象を持ったであろう。

昭和16年の佐世保から始まる。16歳で半島出身者の少女を孕ませた宇南親雄(うなみちかお=鈴木瑞穂)は責任を取らずに逃げ(その後少女は死ぬ)、昭和38年(小説が書かれた年を記す)現在、医院を経営している。昭和28年の共産党同志の死にも罪悪感を感じている。
 細君の英子(松本典子)は同志の恋人だった女性だが、宇南は何度も彼女に堕胎をさせる。

というのは、あくまで設定であって背景の物語に過ぎない。医師は事実上の狂言回しで、以下が本論である。

暴行された少女徳子(紀比呂子)が診断書を求めるのを理屈をつけて遠回しに拒絶する。彼女は所謂部落の少女で、近くに被曝者が身を寄せ合って過ごす海塔新田という集落がある。
 彼がもう一人診るのは、初潮が止まらなくなった小学生の少女である。少女は原爆症に似た症状を示す。夫に去られた母親光子(奈良岡朋子)が自分達夫婦は原爆に遭っていないと言うのは、どうも嘘である。
 かつて被爆したマリア像を壊したことのある海塔新田の若者・信夫(寺田誠)が暴行の容疑で取り調べられる。しかし、同級生の徳子は海塔新田の左手に手袋をした男が犯人であると、その家を訪ねる。犯人に “知らん” と言われた徳子は帰宅するが、入れ替わるように同家に乗り込んだ母親(北林谷栄)は集落の人々を愚弄する言葉を吐いたとして大量の石を投げられ、信夫が投げた石による死ぬ。

監督は僕が割合好きな熊井啓。彼の作品としてはやや先鋭的な作りで独り合点的なところがあるのだが、エピソードの順番に多少入れ替えがあるにしても原作に沿った作りで、全体を眺めると独り合点と思われた部分も大体解消する。

原作に沿ったと言いつつ、最終的に受ける印象は少し違う。映画が、一般的な差別に加えて、差別される者同士の差別という人間心理の歪(いびつ)や複雑さが社会派映画的な余韻を伴って終わるのに対し、小説では、差別一般論ではなく、もっと限定的に被爆(被曝)者の心理や彼らへの差別がより色濃く印象付けられる。
 映画でも同じ要素が扱われながら、どうしても各種差別が全体の要素として並列される印象を残すからであろう。あるいは、原作には出て来ない、被差別とは縁のない中流階級の奥様方が慌てて逃げる信夫をのんびりと眺める様子(という対比)がある為にかかる印象が醸成されるのだと思う。

小説では、佐世保市で育った井上光晴の長崎県や佐世保に感じる重苦しさの個人的表白のように思われてくる。佐世保にはかつて軍港があり、近くの長崎市に原爆を落とされ(被爆はしていないが市民は被曝しているかもしれない)、今でも米軍との関係が色濃く残る。徳子の母親が石を投げられるのは、教会の被爆と合わせて考えると、聖書のエピソードを意識しているのではないか。

小説も映画も、行方の解らない母親が部落出身者であると気付いた親雄が冒頭に半島出身者の女性(被害者への姉)に吐く “知らん” と、被曝者集落の若者が部落の娘を暴行した後の “知らん” が共鳴し合い、差別の問題をかきまわすような印象さえ与えて凄味があるが、映画はそこがやや曖昧に感じられる。原作を読まない人は二度見る必要があるかもしれない。

プライムビデオ無償ラインアップで一月に一本くらい貴重品にありつく。いつまで続くだろうか?

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