映画評「人魚の眠る家」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
2018年日本映画 監督・堤幸彦
ネタバレあり

原作は人気作家・東野圭吾のデビュー30周年記念小説だそうでござる。お得意のミステリーではない。

IT器具会社の社長である夫・和昌(西島秀俊)と別居している主婦薫子(篠原涼子)が、小学校へ上がる直前の娘・瑞穂が町のプールで事故で溺れ、植物状態となる憂き目に遭う。医師(田中哲司)は夫婦に脳死判定をするかどうか問う。他人を思う優しい子であったから臓器移植に賛同するであろうと一度は判定を決意するが、現場で娘の指が動いたこと(多くは機械的反応)から、人工呼吸器で生かすことにする。
 和昌は脊髄が健常である娘の状態であれば自力で呼吸することができると知り手術を行い、さらにその情報をもたらした自社研究員星野(坂口健太郎)の提案するBMI技術で介護者の操作により体を動かすことができるよう手術をする。
 ところが、娘を積極的に外に出そうとする薫子に対し、和昌は機械的に生かしていくことに意味があるのか疑問を覚え始める。周囲の抵抗圧力に遂に行き詰まった彼女は娘にナイフを押し付け「裁判で娘が死んでいるかどうか決めてもらう。自分が有罪になれば娘は生きているのだ」と言い張る。
 さて、この後どうなっていくのか。

本作には色々な対立軸がある。一番明確なのは、死を脳死を以て、或いは心臓死を以てするか、という命題である。本作によれば日本の考えは世界でも独自で、臓器移植を希望する場合は脳死を以って死となし、それ以外は心臓死を以ってする。しかし、これはある意味家族にとっては辛い選択を強いられることにもなるわけで、本作でも重要なテーマである。

或いは脳死し機械的に他臓器を生かしておく場合、本当に生きていると言えるのかどうかという、科学・医学が発達した現代ならではの命題も横たわる。ヒロインVS和昌、星野VS星野の恋人(川栄李奈)の関係がそれである。そこから科学技術が人を幸福にすることが出来るか否かという哲学的な問題も関連して出て来る。

とにかく、本作はその点について観客に色々と考えさせようとする。ある意味どちらも正しいこの対立軸の狭間で苦しむ家族を見て僕は目頭が熱くなった。しかし、さらにここに心理学的な問いが横たわっているのを僕は感じるのである。
 つまり哲学で言うエゴ(自我)である。例えば、一番自分の意見を主張するのは薫子であり、他人から見ればエゴイズム丸出しに見える。こういうのを嫌う観客も多い。しかし、それで終わっては映画を観たことにならない。当然父親の和昌にも妻と意見が一致しない以上彼のエゴイズムがある。瑞穂の幼い弟にも学校でいじめられたくないから誕生会に友達を呼びたくないという意識が芽生える。

しかし、僕の言うエゴはそうした利己主義(エゴイズム)ではなく、その語源となった自我である。例えば、薫子の母親(松坂慶子)には自分がよく観ていなかったから事故が起き、だから蘇生するまで面倒みるのだと言う。或いは自今の原因を作った瑞穂の従妹も自分を責める。他人から見れば潔いが、これらの贖罪意識もまた自分の考えのみに立脚し、自分の意見を放つことのできない瑞穂の考えとは全く関係のないところにある。

薫子は自分の運命を唯一決める権利を持つ瑞穂が目覚め自分の死期が訪れたことと感謝の気持ちを告げるのを夢に見て、やっとエゴ=自我から解き放たれるのである。その意味では他の人も同様である。薫子の母親や瑞穂の従妹はこれを以って罪悪感を消すことはできないが、違うステージに立てることは確かである。
 これが本作のもう一つの話ではなかろうか。主題とまでは言えないが、このように自我の問題として接すれば、薫子のエゴイズムを以って本作を批判することはできないのである。夢一つで考えが大きく変わるとは作劇的には些か安易の誹りを免れないものの、本作において夢は一種の寓意であるから、僕は素直に見たい。

ドラマ映画において登場人物のエゴを嫌ってその人物あるいは映画全体に批判的になるのも、鑑賞者のエゴである。鑑賞者はエゴを極力滅して人物・事象に対しもっと客観的に接する必要がある。

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