保険外交員語「そうなんですね」の本当の意味

 僕は「言葉の保守」を自任している。言葉の保守などという存在には大した価値がないだろう、と考えていたところ、例えば政治について討論する時に共通した言語の理解がなければ相互理解も覚束ないわけで、言葉の保守は実際には一等大事なのだと、ある哲学者が仰っていたのに僕は安心した。

 さて、映画を観られない時期があったので、今日は言葉の話題でお茶を濁すことにする。

 7,8年前のこと、外資系の保険会社から電話がかかってきた時、断ることを前提に「僕は膵炎を患っている(ので、保険加入は無理でしょう)」と述べたところ、相手の外交員が「そうなんですね」と反応したので、僕は驚いた。これが僕の「そうなんですね」経験の第一号である。
 初めて聞いた話なのに、彼女は驚きもがっかりもせず(実際のところは知らない)「そうなんですね」と承服の言葉を放ったことに吃驚した。厳密には、驚いて(がっかりして)ほしかったので、こちらががっかりした。
 しかし、僕が「承服」と思ったこのこと自体、日本語の理解として間違っていたことに、後日気付く。この意味は以下を読めば解るはず。

 この経験をした僕はやがて若い人が多くこの言葉を使うことに気付く。使用者は30代以下(以下だから当然30代を含む)が目立つ。50代以上は営業人種を別にするとほぼ使わない。40代はグレーゾーン。
 この結論はテレビ朝日「報道ステーション」のアナ氏の受け答えを聞いて導かれた。例えば、40代の徳永有美アナは「そうですか」派で、時々「そうなんですね」を言う(多分彼女は事前の打ち合わせである程度知っていることに対してはこの措辞を使っているように思う)。少し若いが同世代の富川悠太アナは「そうなんですね」派である。勿論、ぐっと若い竹内由恵アナは「そうなんですね」派。そんな彼らも本当に信じがたい話の時には「そうですか」を使うが、この区別にも疑問は残るのである。

 ここは基本的に映画ブログであるから映画の話もしよう。
 2015年に作られた江戸川乱歩の映画化「D坂の殺人事件」でこの措辞を聞いた。2018年の「今夜、ロマンス劇場で」でも使われた。問題は前者が大正年間、後者が昭和30年代を舞台にしていることである。そんな言葉の気配が全くない時代が舞台の映画に、こんな平成語を繰り出してはいけない。
 僕はリアリズム至上主義ではなく、お話の展開に齟齬をきたさない限り時代考証・歴史考証も必ずしも正確でなくて良いと思うが、言葉の問題は重要である。時代が現在に近ければ近いほど脚本家は気を付けないといけない。1990年代でさえ今とは微妙に違う日本語が話されていたわけで、その時代を生きて来た人にとってはそれだけで時代ムードが損なわれてしまう。昔を扱った映画では時代ムードが最重要である。

 さて、去年、初めて聞いた話の受け答えとしての「そうなんですね」が非常に気になるので、ネットでどんな意見が通っているかざっと調べてみた。どちらか言うと否定的な意見が多いが、内容としては“帯に短し、襷にも短し”の状態である。そもそも否定派の彼らであっても、“敬語として正しいか”ということを眼目にしている。問題はそんなことではなく、初めて聞く話に「そうなんですね」を肯定的受け答えとして使った場合は間違いである、ということなのである。

 結論から言おう。「そうなんですね」を肯定的に使っていると思っていても、初めて聞く話に使った時は、本人の意志に関わらず、文法的には“確認要請”になる。疑問というほど大げさではないが、話し手に訊き返している。つまり、文字で表記すれば「そうなんですね!?」。この言い方に違和感を持たない人は“話し手に寄り添った”言い方と言うが、実際には決して“寄り添った”措辞ではないのである。

 では、何故こんな齟齬が生れるのか?
 実際次のような齟齬が生れている。我々のような初老以上の年代の人は「そうなんですね」が話の強制終了のように聞こえ、若い人は「そう(なん)ですか」こそ強制終了に聞えるというのだ。頭の良さは僕も認める姉の息子に訊いてもこの事実は確認できた。彼が言っていた中で興味深いのは、「~か」は敷居が高い言い方(敷居が高いというのは本来の意味と違った言い方だが、これは許される)、「~ね」は庶民的で親しみやすい言い方、と言うのである。なるほど、そういうことか

 僕らの世代でも「~ね」は良く使うし、協調的・同調的な言い方に聞えるのは確かである。従って、若い人の言う“寄り添っている言い方”という考えは否定できない。しかし、親が勉強嫌いな子供に向って「絶対今日は勉強するね」と言った場合の「~ね」は念押し、事実上の命令である。こんな「~ね」のニュアンスもあることは一応知っておいてほしい。

 齟齬が生れる理由に戻りましょう。総じて若い人は「~か」を専ら疑問の意味に捉え、感動の助詞という側面を実感として持っていないように感じられる。昔の文章に多く接していないからではないか。
 だから「そうですか」は実は広義の感動(「24時間テレビ」のマラソンや高校野球の大逆転を見た時の感動ではなく、喜怒哀楽全ての感動の意味である。初めて聞いたという驚きも含まれる)を表しているにも関わらず、疑問としか感じない。疑問は話し手に失礼だから「そうなんですね」に置き換える。しかし、「そうなんですね」は本来事実をよく知る者の、話し手への承認の意味であるから、初めて聞く話の応答には使えないのが実際。事情を知らない人が当事者に対し「それは正しい」と言えるわけがない。しかるに何故使えてしまうのか? それはこの措辞がその場合には肯定ではなく確認要請だからである。

 初めて聞く話に対し、「そう」「そうです」「そうなんです」とは反応できない。「そうね」「そうですね」も使えない。ところが、「そうなんですね」になると何故か使える。「そうなんです」の「ん(の)」には説明する意図を加える機能がある。「そうです」はただの事実表明・事実確認であるが、「そうなんです」は説明口調である。例えば、刑事が上司に向って「事実はこれこれです」と言う。それに対し「事実はこれこれなのです」は真犯人か真相に気付いた探偵の口ぶりと感じられる。
 ここで大きな言語的問題が生れる。「そう」「そうです」に「~ね」がついても意味の反転は見られず、初めて聞く話には使えないのに、何故か事実説明の意味が一番強いはずの「そうなんです」に「~ね」が付くと、意味が反転して、初めて聞く話にも使えてしまう。何故か? 実際には肯定(承服)ではなく確認要請若しくは疑問だからである。「~か」は相手を疑っているようで失礼だからと考えて「そうなんですね」を使っているのに、その実、疑問を提示しているのである。しかも「そうですか」のような感動を表現できないというデメリットを伴う。
 文法的な解釈をすれば、本来疑問の意味がない「~ね」は「ん(の)」と結びつくことによって軽い疑問の意味を生じることがあるのである。今回僕は初めて気づいた。

 ある“そうなんですね”否定派サイトにさえ、「一緒に登山した先輩が“疲れたあ”と言った時に後輩は“そうですか”を使えない、“そうなんですね”がふさわしい」という主旨の文章があった。しかし、そもそも、この状況における反応・受け答えとして“そう”を使う語彙の乏しさが嘆かわしい。“私も疲れました”で十分ではないか。“そう”に拘るのであれば、“そうでしょう(ね)”という推量形式がベター。
 この状況である年齢以上の人に“そうなんですね”を使ったら怒られること必定である。ある年齢以上の人には“そうなんですね”は文法が定めるように疑問以外の何物でもないから。

 もっと奇怪な例にも遭遇した。「前日に二人で一緒に買い物をした場合を想定。甲が”昨日買い物に行ったよね”と言う。乙は“そうなんですね”と絶対受け答えできない。従って、“そうなんですね”は知っている話には使えない」というのだ。上と類似する引例なのに、真逆の結論。何故使えないのか。答えは簡単である。確認要請に対し、同じ確認要請を繰り返しているからである。これでは全く話が噛み合わない。
 逆にこの例は、“そうなんですね”が疑問の要素を内包をしていることをよく示している

 本来「そうなんですね」は話し手の内容の承認であるから、話し手を超える知識がある人しか使えない。リオ・オリンピックの競泳中継でアナ氏が知ったかぶりを披露し、解説者が「そうなんですね」と受け答えした。これが肯定的意味での「そうなんですね」の適切な例である。この言い方は説明口調の「ん(の)」が入っているから、通常、その後に詳しい補完的説明が入る。
 他日、同じリオ・オリンピックの競泳で解説者が述べたことに対し、「そうなんですね」と別のアナ氏が受け答えするのを聞いた。ご本人は納得・承服のつもりで使い、悪意は全くないのであるが、前後関係と言葉の構成から言えば上述したように、確認要請若しくは疑問提示なので、高齢の解説者であれば内心お怒りになっているかもしれない。

 「そうですか」の「か」には広義の感動が含まれると書いた。例えば、こんな例が考えられる。奥さんが不調で病院へ同行した旦那さんに医師が「奥さんは末期がんです」と告げる。大概彼は「そうですか」と答える。この場合の感動とは【失意・絶望】である。こんな場合に「そうなんですね」と言う人は(今のところ)まずいない。そんなことを言ったら医者がびっくりする。
 そもそも「そうですか」の代りに「そうなんですね」を使う人は相手に寄り添っているつもりなのだから、このケースのように精神的に寄り添って貰いたいのが相手ではなく自分である以上使うことは考えにくいのである。

 「か」には感動の意味があることをもう一度強調しておきたい。本稿の上の方で「そういうことか」にアンダーラインを引いたのはその為である。童話などでこんな表現をよく目にする。「ドアを開けると、家の前に大きな象がいるではありませんか」。これも感動の表現である。日本語では古来反語による感動表現が多く用いられた。
 言葉上の感動は多く疑問形と隣接する概念である。英語でもHow green was my valley! (我が谷は緑なりき)といった言い方がある。How old is she? は疑問文であり、その変形How old she is! は感嘆文である。実際には上の映画タイトルのようにHow old is she! の語順で感嘆文になることも少なくない。
 「そうですか」には、語尾を上げない限り、疑問の意味など全くない。「か」に感動の意味があると知れば、「そうなんですね」という事実上の疑問文を肯定文として使うなどというねじれ現象は減っていくと思うが、実際には増殖中であろう。

 初めて聞くことに対する「そうなんですね」が隠れた疑問形であることを知った上で使う分には(どうも耳心地は悪いが)良しとしなければなるまい。しかし、「そうですか」の「か」が疑問ではなく、感動を表し、「そうですか」全体としては初めて聞いたという事実の強い表明であることを改めて知ってほしいと思う。

 感動の意味としての終助詞「か」の復権を願わずにはいられないが、大学入試から文学が消える現状を考えると絶望的な気分となる。入試から消えれば、高校で文学を習う機会が殆ど無くなる。極めて口語的な終助詞などまず使われない契約書・法律の読み方といった実用的な文章への理解力を増やそうとするのが狙いらしいが、これをやると行間が読めなくなり、却って取引等にマイナスになるのではないか。方向転換の多いわが文科省であるから、多分十年後には撤回すると推測するが、果して?

 ついでに言葉の問題を少し離れる。若い人は「そうなんですね」で話し手に寄り添っているつもりである。しかし、実際は逆で、話し手に自分が悪く思われたくないだけであろう。「~かなと思う」等若者言葉の底にあるのは殆どこの考えである。空気を読むというのは、相手を思いやるのではなく、相手に嫌われないか戦々恐々としている心理の裏返しに他ならない。その一例である、肯定すべきことを曖昧にする「~かなと思う」症候群は深刻で、こちらは非常に短期間に高齢者にまで蔓延したが、後で話題にするかもしれない。

 最近、読書中に、この言葉の問題が頭を過ぎって集中を欠くことが多かった。本稿を書いたことによって大分すっきりし、読書に集中できると思う。めでたしめでたし。

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この記事へのコメント

浅野佑都
2019年08月26日 15:54
 非常にわかりやすく解説してくださいましてありがとうございました。
ただ、理解できたのと、それらを受け入れることは全く違いますねぇ。
なにしろ、いまや、完全に市民権を得てしまった感のあるら抜きに対しても、僕はいまだに嫌悪感を持ち続けている人間ですから…。

僕らが若い頃から賛否両論だったら抜きが、可能を示す用法に限っては合法的と云うプロフェッサーの解説も、確かに頷けるものでした。
僕は、日本語は、日本人の感情、感覚に羅紗のように繊細に結びついていて、その中から最良の言葉を、引っ張り出すのが美しい日本語の話し手だと思いますが、これもかなり曖昧なんですね。
「眠る」と云う言葉には、いくら僕でも「眠られない」とは言いません(笑)
僕はあまり利用しませんが、スターバックスで複数の産地の珈琲豆、数十種のフレーバーの中から好みの一品を瞬時に選び取る通客のような判断力が必要でしょう(笑)

少し違いますが、語感も大切と思います。
僕の母親がよく、「若い頃を思い出すと涙が出る…」と言っていたのですが、なみだの「み」にアクセントを付けていまして、少し泥臭く非常に感情の篭もった言い方でした。
英語の発音にも魅力的なニュアンスと感じるのはありますが、単語でここまで心情を揺さぶられるようなことは日本語だからこそでしょう。

美しいと言えば、第一次安倍内閣のスローガンは「美しい国 日本」でしたが、当の安倍さんが「スピード感を持って対策しなければいけない事案かなと…」などと、最近では「と、思う」さえ省略して、あまり美しくない日本語使い手の代名詞になっております。

まあ、彼は、平成最後の挨拶に「上皇、上皇后両陛下の健やかな明日を願って已ません」を「願ってイマセン」とやってしまった御仁ですから…
作成した官僚は、已みませんも読めないのか?と頭を抱えたでしょうね!(笑)
オカピー
2019年08月27日 09:05
浅野佑都さん、こんにちは。

一気に書き上げましたが、それなりに書けました。本当は推敲を重ねてもっと完成度を上げるべきでしたが、頭の中でうるさく騒ぐものがありまして、強引にアップしてしまいました。


>ら抜き言葉

自分では絶対使いませんが、この「る・らる」の使い分けが非常に難しいので、話し手が使いやすく、聞き手も区別しやすい一定のら抜き言葉は合理的(「る・らる)は僕らのように言葉にうるさい人でも説明しきれないところがありますね。なかなか難しい。昔の小説を読むと、「走られない」「眠られない」などという日本語が出てきますが、本当に正しいのか?)

言葉がゆっくり変わっていく分には、一定の合理性があれば、認めざるを得ない。大事なのは聞き手が解りやすいかどうか(これが合理性の意味)ですね。
 今回の「そうなんですね」を含め、現在の言葉の変化は話し手にばかり都合が良く、聞き手に都合が悪いものばかり。話し手が発言内容を曖昧にして、とにかく他人から非難されるのを避けようとして生まれたものばかりですよ。
 あるいは丁寧語と思わせる「こちらが~になります」などというふざけた日本語が跋扈している。これも他人からよく思われたいという意識の顕れでしょう。こんな丁寧語はありえませんが。


>なみだの「み」にアクセントを付けていまして

昔の映画などでたまに耳にしますね。あの言い方は懐かしい感じがしますね。
 この「懐かしい」も今では昔のことに関連して使われるだけですが、昔の小説などを読みますと、いまそこにある物に対しても「愛着がある」「魅力的」といった意味で使っていますね。今この意味で使う人は、一部の作家に限られるでしょう。


>最近では「と、思う」さえ省略して、あまり美しくない日本語使い手

実は、「~かなと思う」の間接的な生みの親は安倍氏ではないかという自説があるんですよ。
 第二次政権が生れた時に特徴的すぎて気になる表現に「~なんだろうと思う」というのがありました。推量に推量を重ねる日本語としては殆どナンセンスな用法でした。
 これを若い人が口語を導入にて「~かなと思う」に変え、有名人で頻繁に使ったのが大谷君。大谷君の実力が大したものであったから、野球人に始まりスポーツ界に蔓延、今やニュース・コメンテーターまで使うようになった。
 だから、安倍氏に関しては、「逆輸入」と思っています(笑)。

この言い方の問題は二つあります。一つは、自分の感情など断定できることまで曖昧にしてしまう、他人を意識しすぎた措辞であること。もう一つは、話し言葉の中に話し言葉(かな)を入れるくどさ。
 実際ニュース番組を見ると、最初の場合の対応として「かな」を外してテロップを出したり、二つ目の場合の対応としては「かな」を含む従属節に括弧を付けることがあります。TV局の人はある程度解っていると思います。
2019年09月06日 19:39
そうなんですね〜!
最初から怒られそうですが。

TB機能がなくなると、手軽な接点をもつ手段がなくて、ご無沙汰してしまいます。
「そうなんですね」は、もちろん、聞いたときは違和感ありありでしたが、「ああ、そういうことなんですね」みたいな意味の相槌かと、すぐ理解はしていました。

いま、なんといっても耳障りなのは「かなと思います」です。テレビを見ていると、まあ、しょっちゅう聞きます。どうして伝染するのか、私なら絶対に口ぐせにはしません。「だろうなと思います」くらいなら場合によっては言うかも。

気にしてしまうと、テレビで言うたびに、またか、と思うのですよね。
オカピー
2019年09月06日 23:05
ボーさん、お久しぶりです。

>TB機能がなくなると、手軽な接点をもつ手段がなくて、ご無沙汰してしまいます。

正に。
 映画ブログではTBが非常に重要なので、それがないと価値が半減しますし、仰るようにこちらもなかなか伺えないのです。


>「そうなんですね」
助詞“ね”が相当くせもので、解説者が使う時の“ね”は協調・同調的な意味で使われていますが、初めて聞く時に使う時は念押しの意味になるわけですね。色々書きましたが、簡単に言うとそういうことです。
 本当は念を押しているのに、それを協調的と混同しているところに問題があります。まあ、僕もある程度想定している時に使う分くらいは仕方がないだろうと思っています。

>いま、なんといっても耳障りなのは「かなと思います」
文法的には大きな問題はありませんが、まったくひどいです。
大谷君がよく使ったという事もあってスポーツ界から始まり、今やコメンテーター辺りまでやたらに使います。
 色々問題をお感じますが、断言を避けたがる風潮が流行を押し進めているのでしょう。