映画評「野のなななのか」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
2014年日本映画 監督・大林宣彦
ネタバレあり

大林宣彦監督による【戦争三部作】第2作。圧倒された前作「この空の花 長岡花火物語」を踏襲したところが多く、その登場人物であった山下清らしき人物が一列に並んだ楽隊の最後尾で太鼓を叩いている遊びまである。しかし、本作は前作ほど混沌としていないが故に却ってパワー感で少し落ちる印象。

数年前に開業医を廃業して古物商になった老人・鈴木光男(品川徹)が亡くなり、近くの病院に看護婦として勤め親身に看て来たカンナ(寺島咲)、原発で働いている冬樹(村田雄浩)、春彦(松重豊)、秋人(窪塚俊介)という顔ぶれの孫、故人の妹・田中英子(左時枝)、冬樹の娘かさね(山崎紘菜)、といった親族が一堂に集まる。そこに十数年鈴木病院で働いていた看護婦・清水信子(常盤貴子)が加わる。
 その日から四十九日(なな七日)の間、信子が関係者に影響を与え、次第に故人が戦前から1945年にかけて友人大野(若い時:細山田隆人、現在:伊藤孝雄)とその婚約者・山中綾野(安達祐実)を巡って遭遇した壮絶な体験を浮き彫りにしていく。

前回同様一筋縄で行かない内容で、舞台的な台詞や展開を非常に動的なカメラで捉えていくところに異様な迫力を感じる。とは言え、前作よりぐっと整理されている印象が強い。
 例えば、信子がポツダム宣言後の樺太で凌辱されて死んだ綾野の転生であり、その信子自体が16歳で既に死んだ霊体であることは、比較的明快に示されるので、前作の少女と似た立場でありながら把握しやすい。

人が死んでから四十九日までは生と死の狭間である期間とされる仏教の死生観において故人の信子が現れるのはファンタジーとして理解しやすいが、高校生の時に死んだ信子が実存する形で十数年もクリニックで働いていたのは理屈では解りにくい。だから、信子は高校の時ではなく、クリニックを離れた後に死んだという設定にしたほうが整合性が取れる。
 色々と考えていくうちに、ほぼ全てが死んだ光男の幻想なのではないか、という思いにも至る。いずれにしても、相当の部分において本作は幻想譚である。

映画においては観客はかなりの幻想譚をも現実のように捉える癖があるわけだが、そうした映画観は極力無視した方が無難。フェデリコ・フェリーニを彷彿とする楽団の場面は観客を幻想に導くツールになると思われるから、これを利用しない手はない。

どこまでが現実か幻想か意図的に識別せずに台詞だけを呑み込んで、作者の“過去を忘れるべからず”という主張を理解できれば鑑賞した価値があると思う。

また、総合的に判断すれば、樺太に関する歴史などを色々と紹介する目的は、それらを知らない人に知らしめることにあるように考えられる。
 そうした中で、大林監督は原発に否定的で、再生可能エネルギーに可能性を見出していることが伺えるが、恐らく彼は一度起こるとなかなか終息せず悲劇を起こす原発事業に戦争と同じ空気を感じているのかもしれない。

ところで、当初観る予定のなかった「さびしんぼう」を本作鑑賞前に再鑑賞したことに妙に感動している。というのも、かの映画の主人公・井上弘樹(ヒロキ)が僧侶として愛妻百合子や娘と一緒に出て来るから。娘の名前がヒロインを演じた富田靖子の靖子になっているお遊びが楽しい。
 ヒロキは尾道の人なので「若大将」シリーズ同様に同名異人と思ったほうが良いのかもしれないが、僕ら観客にとっては勿論その30年後の姿に他ならない。「さびしんぼう」を再鑑賞していなければきっとこの遊びに気付かなった筈だから、僕に思いがけず働いた予感に感動するのである。

若い時の鈴木光男を演ずるのは、内田周作。

フェリーニ以外にも寺山修司を想起させますな。

この記事へのコメント

モカ
2019年08月18日 17:53
こんにちは。

>山下清らしき人物が一列に並んだ楽隊の最後尾で太鼓を叩いている遊びまである。
 ランニング姿で太鼓を叩く人といえば、元「たま」の石川浩司さんでしょう。 
オカピー
2019年08月19日 10:28
モカさん、こんにちは。

>ランニング姿で太鼓を叩く人といえば、元「たま」の石川浩司さんでしょう。

その通りでした。
この前作に当たる作品「この空の花 長岡花火物語」で、彼は山下清役で出演したのですが、その縁でこの作品でも、現在彼の属するパスカルズが全員で参加することになったとか。

現在石川氏は必ずしも山下清スタイルでやっているわけではないようなので、山下清を意図した可能性もありますが、判然としないことになります。
2019年08月19日 15:24
 この作品はまだ観ていないので、本来、「さびしんぼう」の映画評論に書くべきなのですが・・。プロフェッサーの書かれた”儲け”の部分にも関連しているので、こちらへ・・。

「さびしんぼう」は、出来からいえば尾道三部作随一でしょうね・・。
とても謎めいた部分の多い作品であり、
これをマザコン少年の夢想物語だと指摘されれば「その通りです」としか言いようがないですが・・。

”さびしんぼう”、僕には、寺山修司的「母殺し」のストーリーであるようにも思います(今生に現れた母親の情念であるさびしんぼうが「水にぬれたら死ぬのよ!」等)
ヒロキのピーピング趣味もなんとなく、寺山を彷彿させますが(笑)。

あるレビューに「百合子が置屋の娘である」と指摘されていましたが、もしそうなら、これは樋口一葉『たけくらべ』の引用であり、そこに「幼年期の初恋的憧れからの避けがたい別れ」という意味を含ませていたのでしょうかね。
 顔の片方を見せまいとする百合子。母親の「念」が幽鬼と化して現れたさびしんぼう。生身の女性はヒロキがカメラ越しに見る「表層だけの存在」ではなく、暗部も情欲も含めた人間。
だからラストシーン、大人になった最後には母の過去の我執=さびしんぼうと決別して父の側=僧侶として生きる道を敢然として選択するのです。

オカピー
2019年08月20日 18:58
浅野佑都さん、こんにちは。

【名無しの権兵衛】さんになっていますが、内容と文体から推して浅野さんですよね。
 リフォーム後のウェブリで大きな問題は、この名無しでも投稿できてしまうこと。これは修正して貰わないといけない。


>寺山修司的「母殺し」のストーリーであるように

なかなか鋭い。「野のなななのか」という一見何を言っているのか解らないタイトルのこの作品を観ても、かなり寺山修司的なので、あの時代からそういう意識があったのかもしれませんね。原作者がいるにはいますけど。

さびしんぼうが「水に濡れると死ぬ」のは写真から生まれたからとも思いましたよ。


>あるレビューに「百合子が置屋の娘である」と指摘

しかと把握できませんでしたが、訳ありの感じは濃厚に伺えましたね。
ヒロキは僧侶の子供だから正に「たけくらべ」。逆に「たけくらべ」から百合子が置き屋の娘という類推ができないこともない。


>だからラストシーン、大人になった最後には母の過去の我執=さびしん
>ぼうと決別して父の側=僧侶として生きる道を敢然として選択する

素晴らしい分析!
その前に訳の分からない感じだった父親がスキンシップを図ったのも、ヒロキの両親に対するイメージをがらりと変えましたね。