映画評「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」

☆☆☆(6点/10点満点中)
2016年イギリス=ベルギー=アメリカ合作映画 監督テレンス・デイヴィス
ネタバレあり

アメリカの女流詩人エミリー・ディキンスン(1830-1886)は名前は知っているが、読んだことはない。彼女の人生についてもよく知らない。
 満55歳で亡くなったことは当時の平均寿命を考えると特別短命というわけではないものの、晩年における腎臓病での苦闘ぶりが壮絶な印象をもたらし、悲劇性を感じる一因になる。

映画の眼目は、彼女の自分に正直な生き方、彼女流に言えば魂の自由を保つ生き方であろう。しかし、彼女が次第に“なりたくない人間になっていく”のは、生まれもっての自分に正直な生き方だけではなく、腎臓の病気がもたらすところがあったのではないか。彼女が最初に病が元で腰の痛みを覚えた時、自分の代わりにパンを取り出すのに手間取る使用人に怒号するのが象徴的であるような気がする。

彼女の孤高を、当時の宗教観(今もさほど変わっていないかもしれない)や男女差別に対する正直な意見が次第に深めていくわけで、この辺りなかなかに辛いものがある。

最初の詩は作者が女性であることを編集者が嫌がって匿名で発表される。彼女としては無念の思いがあったはずだが、英国のエミリー・ブロンテも「嵐が丘」を発表した当初は男性名を使わざるを得なかったし、フランスのジョルジュ・サンド、英国のジョージ・エリオットも、正体が解っても生涯男性名で発表し続けた。本編中でも示されるように、女性には碌なものが書けないという偏見が跋扈し、女性が出ようとすると叩かれる時代が彼女を彼女がなりたくなかった些か偏屈な女性にしたのかもしれない。

エミリー・ディキンスンが実際と違ってきつい女性に描かれていると彼女のファンが指摘しているのを読んだが、それが事実であれば、今よりぐっと低く扱われていた女性の立場を作者(監督・脚本テレンス・デイヴィス)が強調しようとしてデフォルメしたことも考えられる。
 翻せば、女性が完全に男性に伍しているとは言えない現在、本作で扱われる19世紀半ばを反面教師として女権拡張論的に作られている可能性が否定できないということである。と言おうか、僕は中盤それを強く感じ取り寧ろ厭らしさを覚えたというのが実際。

エミリーに扮するのは、若い時をエマ・ベル、描写の中心となる中年時代をシンシア・ニクスンだが、この二人は互いに余り似ていない。どちらか言うと、エマ・ベルは写真に残された若い時のエミリーに似ている。

エミリーの実像と言うより、当時のインテリ女性が感じた息苦しさ、ひいては現在生きる女性の窮屈さを普遍的に考えようという目的で観るのであればそう悪くない出来と思う。

劇中“現時点においてどの分野でも女性は男性に劣る”という意見が出て来る。しかし、日本には紫式部も清少納言も和泉式部もいた。日本の中世はなかなか凄い。

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