映画評「汚れなき悪戯」

☆☆☆☆★(9点/10点満点中)
1955年スペイン映画 監督ラディスラオ・バホダ
ネタバレあり

僕が高く評価している「A・I」(2001年)を語る時童話「ピノキオ」共々この作品は欠かせない。ところが、「A・I」を観てからは初めての鑑賞なのである。

ある村の修道院に生まれたばかりの赤ん坊が捨てられているのを僧侶が発見する。マルセリーノと名付けられた少年は5歳になると、自分に母親がいないことを意識し始め、修道院を訪れた一人の美しい母親を見て母親なるものに憧れを抱き、彼女の息子であるマヌエルを想像上の友人にする。その真の思いが架空の友達ではなく母親にあるのは言うまでもない。
 そんなある日彼は何故か入ることを禁じられている二階へ足を運び、キリスト像を発見する。彼はキリストを知らないが、キリストが導くように、彼の肉であるパンと血であるワインを運ぶと、キリストは生命を帯び彼に手を差し延べ、話をする。やがてキリストは“してもらいたいことを言いなさい”とマルセリーノに問う。少年は“(天国にいる)母親に会いたい”と言い、キリストはその願いを聞き届け、それを修道士たちは奇跡に声を失う。

キリスト教徒でもない僕が涙を探すほどこの終幕には感動を覚える。奇跡に対する感動ではなく、彼が天に召されることへの悲しさでもない、何とも名状しがたい感動と言うしかない。
 自分なりに分析すると、母親への強い思いが僕をして泣かせたように思う。これが「A・I」の一大要素である母親への憧れに通ずる。

暫し余談。
 「A・I」は「ピノキオ」と同様に人間になりたいという希望と、マルセリーノ同様に死んだ母親と一緒にいたいという希望を持ち、マルセリーノと同様、死なないはずのA・Iが死を目指す。「A・I」の悲劇性は、彼が色々と嫌な側面を持つ人間そっくりに作られたのに人間が幸福に生きる為に与えられたかのような“忘却する”という特性を持たず、しかも永遠の命を持っていることにある。そこに恐ろしいまでの哲学性も併存する。
 だから、アンドロイドが人間になり最後には死んでいく「アンドリューNDR114」(1999年)の方が良い作品であるという評価には僕は断然反対なのである。「アンドリュー」には「A・I」のような厳しい人間批判がなく、少なくとも哲学性で「A・I」に全く及ばない。僕はその意味で凡庸さを感じるしかなかったのだ。

本題に戻る。
 この作品が素晴らしいのは、抹香臭い話を全く抹香臭く感じさせなかったこと。それは前述したように少年の思いが純粋にして強く、それまでの一人遊びの描写などによるそこはかとない悲しさが我々観客の胸に刻まれること、或いは12人の僧侶たちの素朴にして多様な性格の描写に微笑まざるを得ないことにある。
 「A・I」のハーリー・ジョエル・オスメントが作品の価値を高めたのと同様に、マルセリーノ君を演じたパブリート・カルボの貢献度も高い。しかし、何年か経ち思い出そうとすると、その顔が「鉄道員」(1956年)のエドゥアルド・ネヴォラになってしまうのである。

この映画の場合、“汚れ”は“けがれ”、“悪戯”は“いたずら”と読むデス。念の為。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 3

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック

  • 汚れなき悪戯

    Excerpt: マルセリーノは小さな村の修道院に拾われた捨て子。 僧たちに可愛がられて育った5歳のいたずら坊主だ。 ある時、マルセリーノは村長に僧院からの退去を命じられるが…。 Weblog: 象のロケット racked: 2019-04-20 10:39