映画評「ジュノーと孔雀」

☆☆★(5点/10点満点中)
1930年イギリス映画 監督アルフレッド・ヒッチコック
ネタバレあり

アルフレッド・ヒッチコック第11作。

アイルランドの劇作家ショーン・オケイシーの傑作で、日本でも演じられたことのある同名の三幕戯曲の映画化である。

1920年代、革命の嵐が吹き荒れるダブリン。一度船に乗っただけの自称<船長>の主人ボイル(エドワード・チャップマン)は女房のジュノー(セーラ・オールグッド)が頭が上がらず、酒を飲んでぶらぶらする毎日だが、ある日公証人より遺産相続の話がもたらされ怠惰に拍車をかける。が、結局遺産は入らず、そのドサクサに紛れて公証人が長女をはらませて逐電、密告者の長男は銃殺される。

ヒッチコックにとってトーキー第2作に当たるドラマで、この頃は主に英国やアイルランドの文学作品を映画化していたわけだが、舞台的に作品を捉えるなら完成度は高く、優等生的とさえ言って良い出来栄え。
 しかし、ヒッチ本人が認めるように、映画としての魅力となると甚だ物足りないと言うしかない。常に固定的な視点で見る舞台と、長い連続性の中で客観・主観を縦横無尽に駆使して構成される映画では同じ評価は下せない、ということである。
 公開当時絶賛されたと言われるが、それは映画の評価とはその文学的内容について行うものではないということが全く分っていない者たちが、プロと称して映画を評していたからである。現在でもその状況にそれほど変わりがあるとは思えない。

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この記事へのコメント

2006年08月06日 18:39
 オカピーさん、こんばんは。すいません。二回TBが行ってしまいました。最近何故かTB返しが上手くいきませんで、困っております。ご迷惑をおかけいたしますが、一方を削除していただければ幸いです。
 『ジュノーと孔雀』ですか。これを見たことがないのでなんとも言えないのですが、仰るとおり映画批評が充実していなかった時代には演劇批評がそのまままかり通っていたのは明白でしょう。
 全く違う芸術を畑違いの権威の人が偉そうに語る様子はむしろお笑い草ではありますが、現在もあちこちで同じように行われている。TVに出てくるコメンテーターと呼ばれる、口だけの輩が専門分野でもないことに偉そうに口を出し、跋扈している現状は健全とは言えません。
 しかし暑いですね。関西は今日、37度でした。風邪を引いたおじさんを担いでいるような暑苦しさでした。ではまた。
トム(Tom5k)
2006年08月06日 22:25
こんばんは
北海道も暑いです。花壇の手入れを今日は花壇の手入れをしていて、直射日光を浴びすぎたためか、頭痛がひどく先ほどまでダウンしておりました。
さて、おっしゃるように舞台芸術と文学(その他芸術)と映画は、異なるものですよね。映画は近代技術を駆使して時空を超えたストーリーを、多数の人間が集団で生み出す、文学でも舞台でもない芸術であると思います。もっというと全てを包含できる総合的な近現代芸術に成りうるものであると思います。
旧芸術と基本的に異なるのは、動的画像が基本で、よりリアルなストーリーと映像が可能だということから始まり、逆に本質的な主題をイリュージョンしていく、つまり具象から抽象への手法を持つ芸術なのかもしれません。
生意気な意見申しわけありませんでした。
オカピー
2006年08月07日 14:14
>用心棒さん、トムさん
群馬も暑いです。一昨日は38.6度を記録して今年(日本で)一番の暑さだったようです。

かなり難しい問題になってきましたが、舞台と映画は姻戚関係にありながら決定的に異なるのは、トムさんのおっしゃるように時空の扱い。その意味では小説の方が映画に近いですね。
また、私が本文でも書いたように、カメラが主観と客観を巧みに切り替えることができるのが映画の特徴で、これを一番巧く扱ったのがヒッチコックでしょう。それができない演劇では興味の焦点はそのテーマと役者の演技に限られます。そこが映画と決定的に違います。
そのヒッチコックが「小説家より劇作家の方がシナリオライターに向いている」と言っているのは大変興味深い。「そんなの当たり前じゃないの」と誰もが思うでしょうが、ヒッチコックは若い頃から戯曲と映画のシナリオは決定的に違うということを映画に携わった初期から認識していたらしいです。ヒッチに限らず、グリフィス、エイゼンシュタイン、チャップリン、フリッツ・ラングなど映画の初期において名を成した人は全てそれを知っていたわけですね。

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