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zoom RSS 映画評「甘き人生」

<<   作成日時 : 2018/05/06 09:23   >>

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☆☆☆★(7点/10点満点中)
2016年イタリア=フランス合作映画 監督マルコ・ベロッキオ
ネタバレあり

マルコ・ベロッキオという監督はデビューして20年以上も経ってから日本に初お目見えした「肉体の悪魔」(1986年)という有名な純文学と同じ題名ながら全く関係ない作品を観た時に独り合点という印象を覚えて余り評価しなかった。それから暫くして観た「夜よ、こんにちは」(2003年)は不満もあったが記号や比喩を好んで使う監督という認識ができた。
 一回できちんと評価するのは難しいという感想も持ったが、それらの認識や感想はこの作品にも当てはめられる。マッシモ・グラメリーニという実在するジャーナリストの自伝を使いながら、自らの作品世界を維持する辺りに、凡庸ではない作家性を強く感じる次第である。

1969年9歳の時に母親(バルバラ・ロンキ)を失ったマッシモ(ヴァレリオ・マスタンドレア)は、成人してジャーナリストとして活躍しているが、サラエヴォでの取材中の出来事にショックを受けて後日パニック発作を起こし、精神科医エリーザ(ベレニス・ベジョ)に診てもらったことから親しくなり、やがて母親の自殺という真相に苦悩しながらもそこから脱却していく(ように見える)。

本作での記号は、映画をある程度きちんと見ていれば誰にも解るように“踊り”と“落下”である。サラエヴォで死んだ母親の傍でゲームにふけっている少年を見たことがパニック発作を起こす原因となったらしいことを考えれば、“母親”そのものも記号と見なしていいかもしれない。

最後のかくれんぼは、母親を探して漸く見つけて一安心という彼の心理の表徴で、はっきりしないが亡母との関係において一応の一区切りができたといったところだろうか。

その前のエリーザの祖父母宅でのパーティーで彼が激しく踊るのは、序盤母親と踊る少年期と呼応し、それ以降踊りを封印した彼がエリーザとの出会いで自らを解放したという意味がある。落下は映画の最後に彼が母親の飛び降り自殺を知る前からイメージとして頻繁に使われるわけだが、エリーザが飛び込みをするのを平然と見るというところから、これもまた母親の呪縛から脱却したと解釈できよう。

物語だけを追うとさして面白いとも思われないが、映像言語という観点からは相当優れた作品と言うべし。

邦題は余り内容と合っていない(但し反語であろう)。それにしても格好をつけて文語「き」を使いますか? 「われらが背きし者」は文語(きし)と口語(が)が入り混じったけったいな題名。名付けた人がそれに気づいているのならまだ救われるが。

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