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zoom RSS 映画評「沈黙 SILENCE」

<<   作成日時 : 2018/02/18 10:31   >>

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☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1971年日本映画 監督・篠田正浩
ネタバレあり

遠藤周作の同名小説を、篠田正浩が当時の彼としてはかなり正攻法に映画化した作品である。公開当時は「SILENCE」はなかったと思う。
 個人的には、三十余年前に観たのが最初。原作も文庫本で読んだことがあると思ったが、先ほど探したところ家に該当する文庫本がないので、勘違いかもしれない。マーティン・スコセッシ版が公開された為、この篠田版も再注目された模様。本文は殆どスコセッシ版鑑賞の前に書いたが、一部鑑賞後に追記したところがある。

17世紀初め、江戸幕府の政策でキリスト教弾圧が激しくなった長崎を布教に訪れたイエズス会司祭ロドリゴ(デーヴィッド・ランプスン)とガルペ(ドン・ケニー)は、村人への拷問の激しさに言葉を失い、危険を避けて逃亡するも、かつて隠れキリスタンの村人を売ったキチジロー(マコ岩松)に売られて、奉行所で厳しく責められることになる。
 しかし、彼にとってそれ以上に苦痛を与えるのが恩師の神父フェレイラ(丹波哲郎)の棄教で、彼に色々と説教されるうちに考えを変えて踏み絵(絵踏み)を受け入れ、先に棄教した武士妻(岩下志麻)と牢屋で激しく抱擁する。

司祭の変心までの過程を綴る内容であることは誰にでも解るが、その奥にあるものはやや把握しにくい。

本作の主たる人物は殆ど棄教する。主人公が変心するのは、フェレイラ元神父の説得以上に、村人たちへの拷問への耐え切れぬ思いからである。キチジローを筆頭に弱さの問題が終始通奏低音的に横たわる(しかし、司祭の変心は寧ろ強さなのかもしれぬ、と僕は考える)。
 フェレイラの話から、ロドリゴはキリスト教信仰が日本的に変容していうることを知る。そして、彼自身も、信心のあり方を信者に強要する厳格な父権的神への信仰から、その変容している日本的な自然神即ち(弱い信者に寄り添う)母性的神への信仰へと変容する、という流れがある。それは、自身キリスト教徒である原作者・遠藤周作の日本的キリスト教観の表白であったと思う。
 母性的神を象徴するのが、原作になかった武士の妻の存在と彼女との抱擁だが、余りにも強い描写に、本当に彼は“転んだのか”という彼の棄教に関する疑問を毫も残さない描写に見えてしまう可能性が生まれ、遠藤が目指したものとは少し違うような感じがする(原作は読んでいない、若しくは正確な記憶がないが、構成的に原作に忠実そうなスコセッシ版を見た後そう理解するのである)。

この幕切れにやや不満があるものの、宗教と国民性との関係というなかなか扱われない素材故に興味深く、それを正面から描いたことは評価したい。ランプスンの日本語が聞き取りにくいのが難点。

題名は、神の沈黙と、弱さ故の村人の沈黙(表面的な棄教)のダブル・ミーニングだろう。

最近学校では“踏み絵”ではなく”絵踏み”と教えるそうだが、本作は最初に“絵踏み”という言葉が出て来る。行為を指す場合、“絵踏み”が日本語的に正しいが、江戸時代でも“踏み絵”を行為に対しても使ったようなので、僕らが習ったのが間違いというわけではない。

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
牧師家庭に生まれたベルイマン、日本の
クリスチャンホームに育った遠藤周作、
どちらも神への疑念が根底あるわけですが
その内面は全く異質ですね。
特に遠藤は本作(原作)にあるように
神と人、というよりも信仰を仲立ちにした
自分と他者との関係性のほうが優位になり
一神教には相容れない独特の日本的湿り気を
表現したかった作家と私は解釈しています。

やり過ぎで一本調子の岩下志麻の
演技が苦手なものですから本作では
無理くり彼女の役柄を作ったような
気がしまして減点の対象。(笑)
私はスコセッシ版を買いますね。
vivajiji
2018/02/18 11:56
ivajijiさん、こんにちは。

>全く異質
僕もそう感じます。遠藤は、日本における信仰そのものに疑念があったのではないでしょうか?

>一神教には相容れない独特の日本的湿り気
そう思います。
 この作品(原作)の中では、日本文化全体を「沼」と表現し、その沼の瘴気にあてられ(?)キリスト教が自然崇拝と合体し変容したと説明されている感じでした。

>無理くり彼女の役柄を作ったような
遠藤氏と篠田監督が共同で脚本を担当していますが、この追加的人物は篠田監督のアイデアでしょうね。
 主題に関連付けられるので、遠藤氏も承知したのかもしれませんが、幕切れはやりすぎで、(僕が勝手にそう思っている)キリスト教の日本的変容、司祭の信仰の日本的転向という主題がぼけてしまった感じがします。
オカピー
2018/02/18 19:17
 「踏むがいい。私は、お前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。」
小説の発表当時、司祭の頭に響いた原作の「神の声」の部分が問題になったそうです。神が「一人の人間に棄教を促す発言をすることはあり得ず、行き過ぎ」だと・・。

篠田版もスコセッシ版も、ロドリゲスが棄教したのは神の示唆によるものか、彼の弱さが「神の声」の幻聴を生んだのかは観客の判断に委ねさせていますね。

 問題のラストですが、スコセッシ版ではロドリゲスの苦悩が希薄で、父的存在の西欧の一神教の神と自然発生的な日本型母性愛の神との狭間で「神の不在」を訴えるだけ。
少なくとも篠田作品には棄教したロドリゲスの絶望と退廃が、夫を助けようとして、同じく踏み絵を踏んだ武士の妻に挑みかかるシーンに痛々しく示されていたのでは・・。

 丹波哲郎のヘンな神父がよく俎上に上がりますが、弱者に寄り添う日本的信仰を説かせるのに、白人俳優では無理があったということでしょうね。丹波はどことなく日本人離れした容貌で、76年に「アラスカ物語」でエスキモーの酋長役も演じています。

スコセッシは神の謎に迫りたかった、と言いますが、彼は畢竟、宗教の表裏一体にあるヴァイオレンスが欲しかったんじゃ?と僕などは勘繰りたくなる(笑)いや、もとえ、宗教の成り立ちそのものが”暴力”だからこそ、信仰による争いが絶えることはないのだ・・と言いたかったのかも?と言いすぎか(笑)
浅野佑都
2018/02/20 02:20
浅野佑都さん、こんにちは。

>問題のラスト
全体的にはスコセッシ版の方が原作の主題を忠実に再現しようとしていたように感じられましたが、幕切れに関してはその立場がやや逆転します。
 多分篠田監督は、ロドリゴ個人の内面にぐっと傾倒し、ああいう結末になったのだろうと思います。それは理解しつつ、また、日本におけるキリスト教の在り方を思惟する原作の主題をサポートする描写であると思いつつ、僕は描写が強すぎて主題をぼかしてしまったと感じたわけです。
 しかし、仰るように、絶望ということを中心に考えた時、人間の行動心理としてはおかしなものではなく、個人の苦痛を描き通してきた作品のトーンとして甚だ一貫したものとなっていますね。

>丹波哲郎のヘンな神父
エスキモーの酋長役という正に適役で、僕は本作の丹波氏はアイヌのように見えました。アイヌは一時白人と思われていたモンゴロイドに近い民族ですから、多少バタ臭いところのある丹波氏はそういう印象を生み出すのでしょうね。
 欧州人には見えないけれども、良い配役でしたよ。

>神の謎に迫りたかった
スコセッシ版では、父たる神は沈黙するけれど、子たるイエス(多分囁くのはこちら)は信仰に関して追い詰められた彼に囁きます。浅野さんが仰るように苦痛が生んだ彼の幻聴かもしれません。
 ご本人がそう仰るのですからスコセッシはそれを狙ったのでしょうが、僕には寧ろ宗教の謎を描いたように見えますね。
オカピー
2018/02/20 21:43

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